なぜ曹魏は水軍が弱かったのか?隋はできたのに曹魏ができなかった?
事はそれほど複雑ではない。要するに、東呉と比べて、曹魏の水軍はあまりにも劣っていた。単に「弱い」どころではなく、まるで時代を一つ取り残してしまったかのようである。これをより明確にするため、一つの参照事例を挙げよう。隋が陳を滅ぼした際(588–589年)、隋軍は長江下流から三方面で攻勢をかけた。楊広(後の煬帝)が六合から!
事はそれほど複雑ではない。要するに、東呉と比べて、曹魏の水軍はあまりにも劣っていた。単に「弱い」どころではなく、まるで時代を一つ取り残してしまったかのようである。
これをより明確にするため、一つの参照事例を挙げよう。
隋が陳を滅ぼした際(588–589年)、隋軍は長江下流から三方面で攻勢をかけた。楊広(後の煬帝)が六合から、韓擒虎が合肥から、賀若弼が揚州からそれぞれ主力を率いて建康(今・南京)を目指した。さらに驚くべきは、連雲港から出港した水軍が、海路を経て松江を突き進み、太湖まで侵入したのである。
確かに陳朝の防衛は極めて脆弱であったが、この戦いから隋軍の水軍運用能力が極めて高度に達していたことが窺える。特に海路から太湖に至る作戦は、隋朝水軍の戦略的・戦術的成熟度を如実に示している。
隋の陳滅亡戦は、北方政権が淮南地域を完全に掌握すれば、その水軍力が南朝を凌駕することも十分に可能であることを証明している。強力な水軍を背景に、北方政権は淮南から江南へ直接的な戦略攻勢をかけることも可能となる。
そして、この「強力な水軍」こそが、隋にはあって曹魏にはなかったものなのである。
実は、曹魏も水軍建設に全く力を入れなかったわけではない。
『三国志』魏書武帝紀には、「玄武池を作りて舟師を肄(なら)ふ」とあり、また「軍、譙に至り、軽舟を作り、水軍を治む」とも記されている。一時的に「曹休、臧覇をして軽船五百艘、敢死の兵万人を率い、徐陵を襲撃せしめ、攻城車を焼打ち、数千人を殺掠す」(『三国志』魏書臧覇伝)といった戦果もあった。しかし、全体として見れば、曹魏水軍は東呉に圧倒されていた。
その典型が、第一次濡須口の戦い(建安18年=213年)である。
この戦いは、まさに孫権の「水戦における個人ショー」とも言うべきものであった。普段は陸戦で評価の低い孫権が、水上では圧倒的な存在感を見せつけた。
『三国志』呉書甘寧伝にはこうある:
権、密かに寧を勅して、夜、魏軍に入らしむ。寧、乃ち手下の健児百餘人を選び、直ちに曹操の営下に至り、鹿角を抜き、塁を越えて営中に侵入し、数十級を斬獲す。北軍、驚き騒ぎ、鼓を打ち火を挙ぐこと星の如し。寧は既に営に還り、鼓吹を奏して万歳を唱ふ。夜、権に謁見す。権、喜びて曰く、「これ足以(た)りて老子を驚かすか?聊(いささ)かに汝の胆を見る耳。」即ち絹千疋、刀百口を賜う。権曰く、「孟徳(曹操)には張遼あり、孤(われ)には興覇(甘寧)あり。足(た)りて相敵す。」
『三国志』呉書・甘寧伝
その後、孫権自らが水上での圧倒的優位を示す。
『呉暦』(『三国志』裴松之注所引)曰く:
曹公、濡須に出で、油船を作り、夜、洲上に渡る。権、水軍を以てこれを囲み取り、三千餘人を捕獲す。溺死せる者亦数千人なり。
『呉暦』(裴松之注引)
また『魏略』(同上)には:
権、大船に乗じて軍を観る。公(曹操)、弓弩を乱発せしむ。矢、その船に着き、船偏重して覆らんとす。権、因(よ)って船を回し、復た一面に矢を受け、矢均(なら)びて船平(たいら)かなり。乃ち還る。
『魏略』(裴松之注引)
さらに『呉暦』:
権、数度挑戦すれども、公は堅く守りて出でず。権、乃ち自ら軽船に乗り、灞須口より公軍に入る。諸将、皆これを挑戦者と以為(おも)ひ、撃たんと欲す。公曰く、「此れ必ず孫権、自ら吾が軍の部伍を見んと欲するなり。」乃ち軍中に勅して皆精厳ならしめ、弓弩妄(みだ)りに発することを許さず。権、五六里を行き、還って鼓吹を奏す。公、舟船・器仗・軍伍の整粛なるを見て、喟然(きぜん)として嘆じて曰く、「生子当如孫仲謀(そんちゅうぼう)。劉景升(りゅうけいしょう)の子は豚犬の如し!」
『呉暦』(裴松之注引)
この戦いでは、「溺死数千人」、「草船借箭(そうせんしゃくせん)」の原型ともいえる逸話、さらには孫権が曹軍の前を悠然と航行する光景が記録されている。水上では、曹魏水軍はまるで存在しないも同然であった。
戦いの末、孫権は曹操に書簡を送り、「春水方生(しゅんすいまさに生ず)、公宜(よろ)しく速やかに去るべきなり」と諭し、別紙には「足下(そっか)死なずば、孤安んずること能わず」と記した。曹操は諸将に語って曰く、「孫権、孤を欺かず」と。遂に軍を撤収した。
この第一次濡須口の戦いは、曹軍に深い衝撃を与えた。その中には、後に孫権の天敵とされる張遼も含まれていた。
第二次濡須口の戦い(217年頃)において、『魏略』にはこうある:
臧覇、孫権を濡須口に討つに従い、張遼と共に前鋒たり。道中、霖雨に遇い、大軍先んじて至る。水遂(つい)に漲り、賊船漸く進む。将士皆不安なり。遼、去らんと欲す。
『魏略』(裴松之注引)
雨で水位が上がり、東呉水軍が接近するのを恐れて張遼が撤退を提案したという。まさに「張順と李逵」のごとく、陸上では猛将も、水上では攻守逆転してしまうのである。
213年当時、曹魏水軍が東呉に蹂躙されたのは、ある程度理解できる。
というのも、曹操が正規の水軍を手にしたのは、208年に劉表の水軍を降伏させてからであり、その直後に赤壁の戦いでほぼ全滅させてしまった。水軍の訓練には年月を要する。208年から213年までのわずか5年間では、到底まともな水軍を構築することは不可能だった。
しかし、曹魏最大の問題は、その後も水軍がまったく進歩しなかったことである。
太和2年(228年)、司馬懿(宣王)が荊州にて水軍を整備し、「沔水(漢水)を下って長江に入り、呉を伐たん」と計画した。張郃に命じて関中の諸軍を率いさせ、その指揮下に入らせた。ところが荊州に至ると、冬期の水位低下により大船が航行不能となり、結局方城に屯して撤退せざるを得なかった(『三国志』魏書張郃伝)。
つまり、曹操が208年に襄陽を占領してから20年近く経つのに、曹魏は依然として漢水の水文条件すら把握できていなかったのである。
対照的に、モンゴル帝国は襄陽をまだ攻略していない段階で既に宋軍と互角に渡り合う水軍を擁しており、襄陽陥落後は漢水を下って武昌を攻略、江南への進撃を開始している。
このような曹魏の水軍力では、長江を越えて東呉水師と対決することなど到底不可能であり、呉の滅亡など夢のまた夢であったのである。