「守江必守淮」とは何か?三国志で「守江必守淮」の戦略はいつ生まれたのか?
「守江必守淮(長江を守るには、まず淮河を守らねばならぬ)」という戦略思想は、南北間の数多の戦いを経て、後世に至ってようやく確立されたものである。実際、曹魏と孫呉が対峙する以前、長江を越えて行われた戦役は極めて稀であった。両軍が互角に渡り合えたのも、まさに「初の試み」であったからに他ならない。例えば赤壁の戦いは。
「守江必守淮(長江を守るには、まず淮河を守らねばならぬ)」という戦略思想は、南北間の数多の戦いを経て、後世に至ってようやく確立されたものである。
実際、曹魏と孫呉が対峙する以前、長江を越えて行われた戦役は極めて稀であった。両軍が互角に渡り合えたのも、まさに「初の試み」であったからに他ならない。例えば赤壁の戦いは、中国戦争史上初めて南北の政権が直接対決した戦いである。
「曹公の軍、百万と称す。然れども、疫病に冒され、士卒の半ば死す。」
——『三国志・周瑜伝』
曹操が孫権を一気に討つ構えであったかは定かではないが、周瑜もまた、兵力で圧倒する曹操軍に勝てる保証はなかった。赤壁の勝利は、天時・地利・人和の三要素が奇跡的に重なった結果であり、その成功はほとんど再現不能であった。
曹操が天下統一を果たす機会を逸した後、曹魏と孫呉は長江を境として長年にわたり南北対峙の構図を形成することになる。この局面において、孫権の果たした役割は極めて大きかった。彼は中国史上、初めて江東(揚子江下流域)を基盤として国家を築いた君主である。
「孫権、江東に据わり、六郡を保ち、国を立てて自ら王と称す。」
——『三国志・呉主伝』
孫権による江東の開拓と統治がなければ、後年の南北長期対峙は成立しなかったであろう。
当時、双方とも長江を越える作戦については試行錯誤の段階にあった。曹操は水陸併用による孫呉討伐が現実的でないと悟り、代わりに孫呉軍が北上する要所である河口を攻撃する戦略に転じた。とりわけ濡須口(じゅし口)は、長江と巢湖を結ぶ濡須水の入口として極めて重要だった。孫権が合肥を攻めるには、濡須水・巢湖を経由せざるを得ず、両軍はこの地で何度も激突した。
「権、濡須口に城を築き、魏軍を拒ぐ。」
——『資治通鑑』建安十八年
一方、荊州の帰属もまた、長江上流を制するか否かという戦略的要諦に直結していた。上流を押さえれば、下流へ順流して水陸併進し、孫呉を滅ぼすことが可能となる。このため、魏・蜀・呉の三勢力が荊州を激しく争ったのである。
後に曹丕が三路から呉を攻めたが、これは失敗に終わった。しかしその経験は後世の戦略に大きな示唆を与えた。当時、孫呉はまだ襄陽・樊城を掌握しておらず漢水の制海権もなかったが、それでも江陵城で曹魏の攻勢を食い止めた。また、曹休が洞口を、曹仁が濡須口を攻めたのも、いずれも渡河拠点を確保して長江を越えようとする試みであったが、いずれも失敗に終わった。
孫権が合肥を攻めたのも、水路を利用して寿春方面へ北進する道を開こうとする戦略的意図があった。孫呉は良馬に乏しく、曹魏と陸戦で正面对決するのは非現実的であった。水路を活用すれば、進撃も撤退も自在であり、補給線が長くなりすぎることによる糧秣輸送のリスクも回避できた。このため、魏の将・満寵(まんちょう)は、孫呉の水軍による頻繁な襲撃を避けるべく、水域から離れた位置に合肥新城を築いた。
「合肥旧城、水に近く、呉船の攻撃を受け易し。故に新城を遠方に築く。」
——『三国志・満寵伝』
こうした試行錯誤を経て、南北対抗の戦術は次第に洗練されていった。後に羊祜(ようこ)が提唱した呉征伐計画が成功を収めたのも、過去の失敗に学んだ結果である。
「呉を伐つには、上流を制して下流を臨むべし。」
——『晋書・羊祜伝』
この教訓を踏まえ、後世の南方政権は「長江の天険に頼るだけでは不十分である」と認識するようになり、「守江必守淮」という戦略思想が確立されたのである。
もっとも、歴史上には淮河を掌握せずとも長期にわたり存続した政権も存在する。その本質は、結局のところ国力の強さにあった。戦略理論のみを論じて国力の差を無視するのは誤りである。
曹魏もまた、孫呉だけでなく、蜀漢の北伐や北方異民族の侵擾にも対処せねばならず、呉征伐に全兵力を集中することはできなかった。『三国志・魏書』にはしばしば「西有蜀寇、北有胡馬」といった記述が見られる。
さらに、孫呉は幾度の危機的戦役においても防衛を成功させている。周瑜、呂蒙、陸遜、陸抗といった名将たちが、それぞれの時代に卓越した指揮を発揮し、呉の存続を可能にした。
「抗、西陵を守り、晋軍を退く。呉の存亡、実に抗に係る。」
——『三国志・陸抗伝』
もし彼らのいずれかが失敗していたなら、呉は晋初まで存続しなかったであろう。
最終的に、西晋は西北で勃発した禿髮樹機能(とくはつ じゅきのう)の反乱を鎮圧し、ようやく呉征伐に専念できる態勢を整えた。すでに国力が衰えきった呉に対して、晋は致命的な打撃を与えた。こうして、中国史上初の南北対峙は幕を閉じたのである。
「太康元年、王濬楼船下益州、金陵王気黯然收。」
——『晋書・武帝紀』