「守江必守淮」は本当に正しい?「守江必守淮」は通説の誤り?
「守江必守淮(長江を守るには必ず淮河を守らねばならぬ)」という命題には、実は実証的な根拠が乏しい。むしろ、西陵から武昌に至る長江中流の水路の帰属こそ、江南政権の存亡を左右してきたのである。晋が呉を滅ぼした際、王濬(おう しゅん)は蜀より長江を下り、一路建康(けんこう、現在の南京)へと進撃した。
「守江必守淮(長江を守るには必ず淮河を守らねばならぬ)」という命題には、実は実証的な根拠が乏しい。むしろ、西陵から武昌に至る長江中流の水路の帰属こそ、江南政権の存亡を左右してきたのである。
晋が呉を滅ぼした際、王濬(おう しゅん)は蜀より長江を下り、一路建康(けんこう、現在の南京)へと進撃した。『晋書』巻四十二〈王濬伝〉には、「濬乃建大艦連舫……舟楫之盛、自古未之有也。……遂入于建鄴」とあり、まさに長江中流からの突破が呉滅亡の鍵となった。
隋が陳を滅ぼす際も、一見すると長江下流からの攻撃のように見えるが、実際にはその基盤はもっと上流にあった。『隋書』巻二〈高祖紀〉によれば、開皇七年(587年)に後梁(西梁)を廃して江陵を奪い、開皇八年(588年)には漢口を完全に掌握して荊州を制圧した。この荊州掌握こそが、後の陳朝攻略の戦略的基盤であった。
宋が南唐を滅ぼした際も、主力の曹彬(そう ひん)は江陵を発して長江を下った。『宋史』巻二百五十八〈曹彬伝〉には、「彬遂引舟師東下、破池州、克銅陵……遂至金陵」と記されており、ここでも長江中流からの進軍が決定的であった。
元が南宋を滅ぼす過程においても、襄陽・樊城を含む荊襄(けいこう)地域での長期戦が繰り返され、最終的に重鎮・鄂州(がくしゅう、現在の武漢)を陥落させたことで南宋の抵抗は一気に崩壊した。『元史』巻一百二十七〈伯顔伝〉には、「鄂州既下、江表震動」とあり、その戦略的重要性が明確に示されている。
さらに清が南明を滅ぼす際、多鐸(たたく)が揚州から南下したことはよく知られているが、同時に左良玉(さ りょうぎょく)の叛軍が西から長江を下り、南明の防衛体制を内側から崩壊させたことも忘れてはならない。『明季南略』巻五には、「良玉東下、南都震恐、江防瓦解」と記され、西からの脅威が南明の長江防衛を実質的に無力化したことがわかる。
以上の諸例を鑑みれば、「守江必守淮」ではなく、「守江必有鄂(長江を守るには必ず鄂州=武昌を握らねばならぬ)」こそが、歴史が示す真実ではないだろうか。
最後に、淮水が東南政権にとって果たした役割について触れておく。顧祖禹(こ そうう)の『読史方輿紀要』巻十九には、「南朝の盛衰、大略して淮南北の存亡を以て断つ」とある。すなわち、淮水地域の得失が南朝の国運を左右したというのである。
しかしながら、淮水の戦略的価値は「守り」ではなく「攻め」にある。国力が充実している時期、東南政権は淮河水系を活用して、北は山東、西は宛洛(えんらく、南陽・洛陽一帯)、南は淮南に至る広大な地域で水軍の機動力を発揮し、北方騎馬軍団の優位を相殺し、戦略的主導権を握ることができたのである。