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なぜ東呉は弱小国家なのに、曹魏・西晋に50年以上も滅ぼされなかったのか?

長江は「天険」と称されるが、北方の長城と同様、延々と数千キロにわたり、一点が突破されれば、連鎖的に全線が崩壊する危険をはらんでいる。長江防衛を固めるには、単に長江に依存するだけでは不十分である。近代の「小諸葛」と称された白崇禧も、「守江必守淮(長江を守るにはまず淮河を守れ)」という有名な戦略を提唱している。

龍の歩み龍の歩み

長江は「天険」と称されるが、北方の長城と同様、延々と数千キロにわたり、一点が突破されれば、連鎖的に全線が崩壊する危険をはらんでいる。長江防衛を固めるには、単に長江に依存するだけでは不十分である。近代の「小諸葛」と称された白崇禧も、「守江必守淮(長江を守るにはまず淮河を守れ)」という有名な戦略を提唱している。

しかし、南朝の嚆矢たる東呉は、そもそも淮南を領有していなかった。それどころか、巴蜀(四川盆地)もなければ、襄陽(現・湖北省襄陽市)すら手中にしていなかった。さらに、この時代の江東(長江下流南岸)は、まだ「衣冠南渡」(晋の永嘉の乱後に中原の貴族・文化人が江南に移住した現象)が起こしていない段階であり、後の南朝諸国と比べて総合的な国力は明らかに劣っていた。南朝末期の南陳を除けば、東呉は最も国力が弱かった南朝政権と言えるだろう。その相手は、すでに北方を統一した曹魏である。

にもかかわらず、東呉は建国から50年以上存続し、孫策が江東を平定した時点から数えれば、実に82年もの長きにわたって国を保ったのである。

東呉の長江防衛線は、常に「泰山の如く」堅固であり、曹魏の南征はことごとく失敗に終わり、その度に被害は増大していった。三路伐呉(222–223年)、石亭の戦い(228年)、東興の戦い(252年)……曹魏軍は心理的トラウマを抱えるほどであった。後に西晋に代わってからも、西陵の戦い(272年)では、羊祜(ようこ)が陸抗(りくこう)に完敗し、「行動芸術」に走るほど追い詰められた。

西晋が最終的に東呉を滅ぼしたのは、孫皓(そんこう)の暴政により、東呉内部が腐敗しきっていたからである。『晋書』には次のように記されている:

「時、朝議咸く伐呉を諫す。濬乃ち上疏して曰く、『臣、数へて呉楚の同異を参訪す。孫皓、荒淫にして凶逆、荊揚の賢愚、嗟怨せざるなし。且つ時運を観れば、宜しく速やかに征伐すべし。今伐らざれば、天変難く予し得ず。仮令い皓、卒して死すとも、更に賢主を立て、文武各其の所を得れば、則ち強敵なり。臣、七年船を作り、日ごとに朽敗す。又、臣年已に七十、死期無きにしもあらず。此の三者一たび乖けば、則ち図り難し。誠に願わくは陛下、事機を失することなかれ』」

(『晋書』巻42・王濬伝)

もし孫皓の代に滅ぼさなければ、明君が即位すれば「強敵」と化す——これが西晋の識者の共通認識だったのである。

なぜ、東呉は弱体でありながら長く存続できたのか?

常識的に考えれば、衣冠南渡前の南方は、北方の曹魏・西晋と比べて人口・経済・軍事力のすべてで圧倒的に劣っていた。水軍の優位性があったとしても、曹魏が精鋭水軍を編成できなかったとは考えにくい。

東呉が長期存続できた理由は多岐にわたるが、第一に挙げられるのは、漢末三国時代が水軍発展の黄金期だったという点である。南方での戦いにおいて、水軍は極めて重要であり、東呉水軍はその質・量ともに卓越していた。西晋の羊祜でさえ、東呉の他の面は劣っても、「唯、水戦は其所便なり(ただ水戦だけは彼らの得意とするところである)」と認めている。

「其の俗、急速にして持久すること能わず。弓弩戟盾は中国に如かず。唯、水戦は其所便なり」

(『晋書』巻34・羊祜伝)

第二に、人材の豊富さである。初期の周瑜・呂蒙、中期の陸遜・朱然、後期の陸抗に至るまで、優れた将帥が代々輩出し、巧みな戦術で北方を翻弄した。羊祜が陸抗の死後、ようやく「伐呉」を強く主張し始めたことからも、その脅威がいかに大きかったかが窺える。

だが、「人」だけがすべてではない。地理的優位性も極めて重要であった。特に、東呉は後世の南朝とは異なる「独自の地利」を享受していた。

北方からの南征ルートと東呉の地政学的優位

古代において、北方勢力が南方を征服するには、長江の制海権を掌握する必要がある。そうでなければ、兵を長江以南に送り込んでも補給線が断たれ、全軍覆没は避けられない。

北方から長江に至る主要な水路は、西から東へ以下の四つが存在した:

  1. 長江本流航路:巴蜀から長江を下る
  2. 漢水航路:襄陽から漢水を下り、長江に合流
  3. 濡須水航路:淮河→淝水→巣湖→濡須水→長江
  4. 中瀆水航路:淮河→中瀆水→長江

この他に、涢水(随棗通道)や皖水(皖城付近)といった副次的水路もあったが、これらは北方の水系と直接接続されておらず、戦略的価値は限定的であった。

1. 長江本流航路:巴蜀不在の致命的欠陥

曹魏は巴蜀を領有していなかったため、このルートは利用不能。

2. 漢水航路:襄陽があっても江陵がなければ無意味

後世(例:蒙古の南宋攻撃)では、襄陽を拠点に漢水を下って長江に進出するルートが主流となった。しかし、漢末三国期には、江陵(現・湖北省荊州市)がその鍵を握っていた。

当時、雲夢沢(うんぼたく)が広がっており、夏口(現・武漢市漢口)の背後は湿地帯で、大軍を駐屯させると補給が困難だった。孫権が都を建業(現・南京)に遷したのも、このためである。孫皓が再び武昌(現・湖北省鄂州市)に遷都しようとした際には、民衆の反発が激しく、童謡まで生まれたほどだ。

「寧(むしろ)建業の水を飲み、武昌の魚を食わず。寧(むしろ)建業にて死し、武昌に居らず」

(『三国志』巻61・潘濬陸凱伝)

さらに、江陵からは揚水・夏水を通じて漢水に進出可能であり、襄陽から夏口を攻める曹軍を「挟み撃ち」にできた。よって、漢水航路を安全に使うには、まず江陵を制圧せねばならなかった

実際、司馬懿(宣帝)が江陵無しでの南征を試みたことがあったが、最終的に断念している。

「設い賊、二万の兵を以て沔水(漢水)を断ち、三万の兵を以て沔南の諸軍と相持し、一万の兵を以て柤中に陸梁せしめば、将に之を救うべきや?」

(『晋書』宣帝紀)

江陵は、長江の交通の要衝であり、巴蜀・呉越・五嶺・中原を結ぶ「南方の十字路」であった。顔真卿も「荊南巨鎮、江漢上流、右は巴蜀を控え、左は呉越に連なり、南は五嶺に通じ、北は上都に上る」と称している。

また、三峡の急流を下る船は小型で尖頭であり、江陵以東の広い長江では大型の平底船に乗り換えねばならなかった。よって、東西の船は必ず江陵で入れ替えが必要だった。

孫権は夷陵・江陵一帯に約8万の兵を常駐させ、防衛だけでなく積極的な攻勢も展開していた。しかし、孫皓の時代には兵力が削減され、陸抗が臨終に際して次のように上奏しても、聞き入れられなかった。

「臣の所部、足らん八万に満つべし……若し臣死の後、乞う西方を属とせよ。願わくは陛下、臣の言を思覧し、則ち臣死して且つ不朽ならん」

(『三国志』巻58・陸抗伝)

陸抗の死後、夷陵—江陵防線は簡単に突破され、東呉は滅亡への道を辿った。

3. 濡須水航路:合肥と濡須の要塞化

曹魏が最も頻繁に用いたルートである。合肥を抑えられると、北方水軍は巣湖すら入れない。孫権が何度も合肥を攻めたのはこのためだ。

しかし、呂蒙が濡須に「濡須塢」を築いて以来、東呉はこの地点を要塞化し、濡須城・東興堤を築いて「山を背に、水を拒む」堅固な防衛線を構築した。東呉滅亡時まで、濡須は一度も陥落しなかった

4. 中瀆水航路:浅く、沼が多く、実用性に欠ける

このルートは建業に直結するが、漢末三国期には中瀆水は浅く、射陽沢(現在の高郵湖・邵伯湖周辺)の沼地が広がり、大規模船団の通行は不可能だった。曹丕が広陵から伐呉を試みた際には、船が詰まって大混乱に陥った(「堵船」)。

孫峻が広陵に城を築こうとしたが、人力・物資が足りず失敗に終わった。

「峻、広陵に城せんと欲す。朝臣、其の城し難きを知れども、畏れて敢えて言わず。唯、滕胤のみ諫めて止む。然れども功、竟に就かず」

(『三国志』巻64・諸葛滕二孫濮陽伝)

「衛尉馮朝をして広陵に城せしむ……是の歳、大旱す。民飢えて、軍士怨叛す」

(『三国志』巻48・三嗣主伝)

この地域は後に「淮南渡江遂為棄地(淮南から長江を渡る道は、遂に捨てられた地となる)」と記されるほど、戦略的価値を失った。

結論:地利・人和・時勢の三拍子

東呉が長期存続できたのは、卓越した水軍力世代を超えた人材輩出、そして漢末三国期特有の地政学的優位性——この三要素が重なった結果である。

特に、江陵と濡須の二大要塞が、曹魏の南征をことごとく挫いた。後世、雲夢沢が干拓され、漢水航路が直接長江に接続されるようになると、江陵の戦略的重要性は低下し、武昌(夏口)が新たな要衝となる。だが、東呉の時代には、まさに「江陵なくして長江なし」だったのである。

西晋が最終的に東呉を滅ぼせたのは、巴蜀を掌握し、大規模水軍を編成し、孫皓の暴政で内部が崩壊し、陸抗のような名将が不在という、三重の「デバフ」が重なった稀有な機会を逃さなかったからに他ならない。


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