なぜ関羽は荊州を守れなかったのか?蜀漢はなぜ関羽を救援しなかったのか?
まず地理的条件から見ると、益州(現在の四川盆地一帯)と荊州(現在の湖北・湖南一帯)は地図上では隣接しているように見えるが、実際には山岳地帯に隔てられ、交通・通信ともに極めて困難な、事実上「隔絶された二つの地理単位」であった。古代において交通手段が極めて未発達であったことを考えれば。
まず地理的条件から見ると、益州(現在の四川盆地一帯)と荊州(現在の湖北・湖南一帯)は地図上では隣接しているように見えるが、実際には山岳地帯に隔てられ、交通・通信ともに極めて困難な、事実上「隔絶された二つの地理単位」であった。
古代において交通手段が極めて未発達であったことを考えれば、両地域が戦略的に連携し、共に北伐を企てることはあっても、戦術的な即時支援は、その距離と地形ゆえにほぼ不可能であった。
『三国志』巻三十二〈先主伝〉に曰く:「巴蜀險塞、沃野千里、天府之土也。」
——益州は天険に守られ、豊かな土地ではあるが、その「險塞」(険阻な要害)ゆえ、外部との連絡は極めて困難であった。
さらに、川(四川)と鄂(湖北)を結ぶ道は、伝統的な「蜀道」よりもなお数倍も険しかった。近代においても、宝鶏から成都を結ぶ宝成鉄道が1958年に開通したのに対し、重慶と湖北を結ぶ宜万鉄道は2011年まで開通しなかった。この事実からも、古代の交通事情がいかに苛烈であったかが窺える。
劉備政権時代の技術水準と兵站能力を考えれば、遠隔の荊州の危機に即応することは、まさに「望洋興嘆」(大海を眺めて嘆く)——手の届かない悲嘆——そのものであった。
実効支配の限界と通信の遅延
実際、蜀漢政権が成立後も、その実効支配地域は成都を中心とする成都平原に限られており、川東の丘陵地帯や川西の高山地帯はほとんど未開発のままであった。人力・物資のほとんどが成都平原に集中しており、襄陽(襄樊)からは直線距離で約1,100キロメートル以上離れている。
『後漢書』巻百十三〈郡国志〉によれば、当時の急使(駅馬)の速度は一日に約100里(約41キロ)とされ、成都から襄樊までの往復には十日以上を要した。
このように、成都が荊州の危機を知るまでに既に数日を要し、その後、軍を整えて急行軍で湖北へ向かうにはさらに日数が必要であった。このような長距離救援は、現実的に不可能に近かった。
さらに、上庸(現在の湖北十堰付近)に駐屯していた劉封・孟達の軍団は、関羽の窮状を知りつつも救援を拒否した。この判断は、関羽に残されていた僅かな生還の可能性を完全に断ち切るものであった。
『三国志』巻四十〈劉封伝〉に曰く:「(関羽)連呼封、達、令発兵自助。封、達辞以山郡初附、未可動摇、不承羽命。」
——関羽が繰り返し援軍を要請したが、劉封・孟達は「山郡(辺境の新領)はまだ安定しておらず、動かせない」として、命令に応じなかった。
この事実は、成都本営が関羽や荊州を救う意思があったとしても、実際には余力を残していなかったことを示している。
漢中戦役後の兵力不足
また、漢中戦役後の蜀漢軍は、関羽を救援できるほどの余剰兵力を有していなかった。
劉備が漢中を奪取した後も、その支配領域の拡大・安定化のため、軍事行動を継続していた。そのため、荊州方面への大規模な兵力派遣は現実的ではなかった。
さらに、戦略的観点から見ても、関羽の北伐の本来の目的は襄樊の占領や本格的な北上ではなかった。
『三国志』巻三十六〈関羽伝〉に曰く:「(関羽)威震華夏、曹公議徙許都以避其鋭。」
——関羽の勢いは一時、曹操を許都(首都)の移転まで考えさせるほどであったが、これは「威圧」が主目的であり、本格的占領を意図したものではなかった。
ところが、関羽は「水淹七軍」(七軍を水攻めにして殲滅)という初期の勝利に気を良くし、襄陽・樊城の攻略が現実的であると錯覚した。その結果、当初の戦略を逸脱し、「益州軍と連携して曹魏を挟撃する」という過大な目標を掲げた。
しかし、関羽の周囲には十分な兵力も資源もなく、前線を強化するために荊州各地から兵力を引き抜かざるを得なかった。その結果、荊州の防備は極度に脆弱となり、呂蒙率いる東呉軍の奇襲(白衣渡江)を許すことになった。
『三国志』巻五十四〈呂蒙伝〉に曰く:「蒙至尋陽、尽伏其精兵舳艫中、使白衣摇櫓、作商賈人服、昼夜兼行、至羽所置江陵督、公安守、皆降。」
——呂蒙は兵士を船に隠し、商人の格好をして昼夜兼行で進軍。関羽が配置した守備隊は全く察知できず、無抵抗で降伏した。
戦略的誤判と責任所在
実際、襄樊の戦いは、曹操が西方(漢中方面)に主力を向けていた隙を突いた「襲撃戦」に過ぎず、その目的は曹操の注意を引きつけることであった。曹操が漢中から撤退した時点で、関羽の戦略的機会はすでに失われていた。
この時点で、関羽はただちに主力を荊州に引き戻し、東の拠点を守るべきであった。しかし彼は「一意孤行」(独断専行)し、結果として荊州を失った。
成都の劉備政権は、ようやく益州を手に入れたばかりで、新たな大規模な軍事行動の余力はなかった。彼らは「心有余而力不足」(志はあっても力が及ばず)——まさにその状態であった。
ゆえに、荊州喪失の第一の責任は、戦略的判断を誤り、防備を疎かにした関羽自身にあると言わざるを得ない。