関羽の敗走麦城は避けられたのか?水淹七軍の勝利が招いた悲劇?
劉備は、関羽が「七軍を水攻めにする」ほどの大勝を収めるとは思わなかった。そして、その関羽が麦城に敗走し、ついには討たれるとは、なおさら予期していなかったのである。建安二十三年(218年)、劉備は法正の進言に従い、漢中への北伐を決意した。しかし初戦は不利を極め、呉蘭・雷銅の両将が曹洪に討たれた。
劉備は、関羽が「七軍を水攻めにする」ほどの大勝を収めるとは思わなかった。そして、その関羽が麦城に敗走し、ついには討たれるとは、なおさら予期していなかったのである。
一、漢中王即位と関羽の独断北伐
建安二十三年(218年)、劉備は法正の進言に従い、漢中への北伐を決意した。しかし初戦は不利を極め、呉蘭・雷銅の両将が曹洪に討たれた(『三国志・先主伝』:「蘭、銅敗れて死す」)。劉備は陽平関に大軍を進駐させ、夏侯淵・張郃と対峙する。
この膠着状態は一年余り続いたが、劉備は戦略を転換し、陽平関を捨てて定軍山に陣を移した。これに対し夏侯淵も追撃したが、逆に黄忠の奇襲を受けて討たれた(『三国志・黄忠伝』:「淵を斬り、首を獲る」)。
夏侯淵の死後、劉備は漢中を掌握する。これを知った曹操は大いに驚き、自ら大軍を率いて漢中に赴いた(『資治通鑑』巻六十八:「操自長安出斜谷、軍遮要以臨漢中」)。しかし劉備は要害を固め、黄忠・趙雲に命じて曹操の糧道を遮断したため、曹操はやむなく撤退を余儀なくされた(『三国志・先主伝』:「操引軍還」)。
その後、劉備は勢いに乗じて劉封・孟達に命じ、上庸・房陵・西城の「上三郡」を占領させた。こうして劉備の勢力は頂点に達し、建安二十四年(219年)七月、遂に「漢中王」を称した(『三国志・先主伝』:「秋、群下上先主為漢中王」)。
まさにその月、関羽は荊州より北伐を開始し、襄陽・樊城を包囲した。
ここで一つの疑問が生じる——関羽の北伐は、果たして劉備の命令によるものだったのか、それとも独断によるものだったのか?
『三国志』をはじめとする正史には、成都あるいは漢中から関羽に北伐を命じた記録は一切見当たらない。ゆえに、関羽の北伐は基本的に自発的行動であったと判断される。
二、「仮節鉞」の権限と水淹七軍の大勝
関羽が劉備に請示せずに北伐を開始したことは、形式上は規律に反するが、法的には正当であった。なぜなら、同年七月、劉備が漢中王に即位した際、関羽を「前将軍」に任じ、「仮節鉞(かせつえつ)」を授けたのである(『三国志・関羽伝』:「先主為漢中王、羽為前将軍、仮節鉞」)。
「仮節」とは、皇帝(あるいは王)の代理として軍政を統括する大権であり、蜀漢において関羽は劉備に次ぐ第二人者、まさに「一人之下、万人之上」の地位にあった。特に荊州方面における軍政の最高責任者として、「先斬後奏(先に処断して後で報告)」の権限を有していた。よって、襄樊攻撃に際して劉備への事前承認は不要だったのである。
劉備・諸葛亮がこの北伐を知らぬうちに、関羽は驚異的な戦果を挙げた。曹仁は樊城に閉じ込められ、危機的状況に陥った。曹操が救援に派遣した于禁・龐徳の七軍は、関羽が漢水を堰き止めて放水したため、一挙に水没し、于禁は降伏、龐徳は拒んで斬られた(『三国志・関羽伝』:「羽乗船攻之、禁等七軍皆没。禁降、徳罵而死」)。
この「水淹七軍」の勝利により、許都以南の山賊・豪族らが次々と関羽の印綬を受けて帰順し、「関羽の支党」となった(『三国志・関羽伝』:「梁・郟・陸渾群盗、或遥受羽印号、為之支党」)。関羽の威名は「華夏を震動せしめ」、曹操は都を遷してその鋭鋒を避けようとしたほどである(『三国志・武帝紀』裴松之注引『魏書』:「議徙許都以避其銳」)。
この捷報が届いたとき、劉備はおそらく漢中から成都へ帰還する途上にあった。彼がこの報せを聞けば、「我が二弟、誠に天下無双なり!」と喜んだに違いない。
しかし当時、漢中新占領直後であり、魏延が漢中に残り、主力の多くは成都や各地に帰還して休整中であった。しかも関羽から届いたのは「求援の書状」ではなく「勝利の捷報」である。そのため、劉備は増援を送らなかった。
諸葛亮も同様の判断を下したと考えられる。北伐軍は疲弊しており、関羽は勝ちに乗じている——援軍は不要と見なされたのである。
三、人心の読み誤りと荊州の崩壊
劉備・諸葛亮の戦略的判断自体は誤りではなかった。真の問題は、「人心の読み誤り」にあった。
彼らは、以下の三つの裏切りを予測できなかった:
- 呉が同盟を破って荊州を奇襲すること(孫権・呂蒙の背信)
- 糜芳・傅士仁が城を明け渡して降伏すること
- 劉封・孟達が関羽の救援要請を拒否すること
荊州の喪失は、関羽自身の「剛愎自用・傲慢無礼」(『三国志・関羽伝』:「羽剛而自矜」)に起因する部分が大きいが、同時に劉備・諸葛亮の「人心に対する甘い見通し」も重大な要因である。
もし、関羽が樊城を目前に陥落させようとしていた段階で、劉備が法正・張飛を率いて一万の兵を急派していたならば、たとえ徐晃に敗れたとしても、荊州全域を失うような惨敗には至らなかっただろう。
しかし現実は、関羽は孤立無援・衆叛親離の状態に陥り、もはや自保すら叶わなかった。まさに「盛極必衰、物極必反」——関羽が「華夏を震動せしめた」その栄光も、一転して麦城の敗死へとつながった。その変転の速さは、まさに「朝に成りて夕に亡ぶ」が如しである。
諸葛亮のような英知の人ですら、「固若金湯」と思われた荊州がこれほど脆く崩れるとは予想できなかった。
故にこそ、劉備は漢中を制した直後に、即座に荊州へ増援を送らなかったのである。