関羽が襄樊の戦いで撤退しなかった本当の理由は?「玉璽が襄陽から出た」とは?
この時期の劉備は、すでに帝位継承の準備を進めていたと考えられる。関羽が「水を以て七軍を淹(おぼ)る」大勝を挙げ、華夏を震撼させたかと思えば、その後、急速に敗れて命を落とした。この重大な転機において、成都の劉備・諸葛亮・法正・張飛らは、史書に一切の記録がなく、まるで天下の運命が岐路に立ったその瞬間。
この時期の劉備は、すでに帝位継承の準備を進めていたと考えられる。
関羽が「水を以て七軍を淹(おぼ)る」大勝を挙げ、華夏を震撼させたかと思えば、その後、急速に敗れて命を落とした。この重大な転機において、成都の劉備・諸葛亮・法正・張飛らは、史書に一切の記録がなく、まるで天下の運命が岐路に立ったその瞬間、彼らが存在しなかったかのように描かれている。
しかし、実は一条の史料が残されている。そこから、我々はある程度の推測が可能である。
それは、後に劉備が帝位に就く際、群臣が上奏した「勧進表」に記された一件である。襄樊の戦いの最中、関羽が劉備に「襄陽より玉璽(ぎょくじ)が出た」という祥瑞を献上したというのである。
『三国志・先主伝』裴松之注引『献帝春秋』曰く:
「前、関羽が于禁を襄陽に囲むや、襄陽の子、張嘉・王休が玉璽を献じた。漢水に潜み、淵泉に伏す。その光輝き燭(しょく)して天を徹す。漢とは、高祖が天下を定めし国号なり。大王(劉備)は先帝の跡を継ぎ、漢中にて興りたまう。今、天子の玉璽、神光現れて襄陽より出ず。漢水の末流明らかなり。大王はその下流を承け、天子の位を授けらる。瑞命・符応、人力に非ず。」
この記述は、一つの重大な疑問を解く鍵となる。すなわち、成都政権が襄樊の戦いを全く知らなかったわけではなく、関羽が単独で行動していた可能性も否定される。劉備は少なくとも戦局の初期段階、関羽が優勢を保っていた時期には、その動向を密接に注視していたはずである。
さらに推測すれば、蜀漢の最高軍事指揮官が、これほど重大な軍事行動の最中に、君主に「玉璽出ず」という明確な帝位暗示を含む祥瑞を献上する行為は、事前の密約なしにはあり得ない。これは天下を震撼させる出来事であり、劉備側の積極的な関与を示唆している。
この視点から考えれば、劉備が水淹七軍の勝利と「玉璽出ず」の祥瑞を受けて、帝位継承を本格的に画策していた可能性は極めて高い。
第一に、軍事的勝利の後に政治的地位を高めるのは、当時の常識である。劉備自身も漢中を制して「漢中王」に進位し、孫権も石亭の勝利を機に帝位に就いた。戦果の規模でいえば、水淹七軍はこれらの戦いに決して劣らない。したがって、この勝利を足がかりに帝位を狙うのは、極めて合理的な判断である。
第二に、劉備はこの時すでに六十歳に達しており、余命も長くないと考えていたはずである。曹魏や孫呉とは異なり、劉備には有力な宗族の支援もなく、後継者(劉禅)は幼少、蜀地における支配基盤も脆弱であった。曹操や孫権は時間と人材に余裕があったが、劉備には「待つ」余裕がなかった。君臣の名分を確立し、政権の正統性を急いで固める必要があったのである。
この仮説が正しいとすれば、歴史上のいくつかの不可解な行動も説明がつく。
例えば、関羽が襄樊で明らかに苦戦しているにもかかわらず、撤退を拒否した理由。それは、「玉璽出ず」という祥瑞を献上した以上、敗走すればその祥瑞の意義が失われ、劉備の帝位継承計画も頓挫してしまうからである。彼は、少なくとも劉備が「三譲三進」の儀礼を開始するまで、漢水の前線を死守せねばならなかった。そのため、徐晃に敗れた後も、兵疲れて援軍を要請し、江陵の守備兵を北上させるなど、無理を承知で戦い続けたのである。
この無理な継戦が、孫権による荊州奇襲の絶好の機会を提供した。
また、関羽が襄樊で苦戦している最中に、成都側がまるで「消えた」ように記録に現れない理由も、これで説明できる。彼らは関羽を放置していたのではなく、むしろ「より重要な任務」に集中していた——すなわち、劉備の帝位即位に向けた準備である。蜀中内部の不満分子を抑えるため、軍を動員して治安維持に注力していた可能性が高い。そのため、荊州への援軍を送る余力がなかったのである。
もし関羽が襄樊の戦いに勝利していたなら、劉備はただ一つの問題に直面したであろう。それは、漢献帝がまだ生存しており、その存命中に帝位に就けば「不忠」の汚名を免れ得ないという点である。
しかし、実際には劉備は建安二十五年(220年)、曹丕が帝位に就いた直後に「献帝はすでに崩御された」として喪に服し、その死を前提に帝位を継承した。『三国志・先主伝』にはこうある:
「或いは献帝崩御の報ありと云う。先主は発喪し、服を着て三日間哭したまう。」
このように、献帝の生死は形式上の問題に過ぎず、劉備が帝位を称する上で決定的な障害とはならなかった。さらに一歩進めば、即位後に高祖(劉邦)を宗廟に祀り、漢統を直接継承すると宣言すれば、曹操が「天子を奉じる」という大義名分を逆に失墜させることも可能だった。曹操が劉備を「逆賊」と呼べば、自らの簒奪計画は遅れざるを得ず、もし劉備を討てなければ、漢室は「東西二帝」となり、曹魏の禅譲も正統性を欠くものとなる。
かつて袁術が帝位を僭称して敗れたのは、時勢を読めなかったためである。しかし劉備の時代には、情勢はすでに大きく変化していた。帝位継承こそが、逆に「破局を打開する一手」だったのである。
ところが、関羽の急激な敗北と死、そして荊州の喪失により、劉備の帝位計画は頓挫を余儀なくされた。その根拠であった「襄樊の大勝」と「玉璽の祥瑞」は、もはや政治的資産ではなく、むしろ敗北の象徴となってしまった。そのため、蜀漢建国後、これらの記録は意図的に隠蔽されたと考えられる。
実際、陳寿の『三国志』には、「黄龍赤水に現る」や「玉璽襄陽より出ず」といった祥瑞の具体的な年代が記されていない。なぜなら、それが建安二十四年(219年)——献帝がまだ許都に在位していた時期——の出来事だからである。もし年代を明記すれば、劉備が献帝存命中から帝位を狙っていたことが露呈し、蜀漢の「漢室忠臣」という公式立場が崩壊してしまう。
『先主伝』や『関羽伝』にも、関羽が祥瑞を献上した記述は一切見られない。唯一、その事実が残っているのは、天下に公示された「勧進表」だけである。これは、蜀漢政権が他の記録を削除・修正した後も、すでに広く知られていた勧進文だけは隠しきれなかったためであろう。
このように、史料の空白は偶然ではなく、蜀漢の公式史観——特に諸葛亮が主導した「劉備は曹丕の簒奪に対抗してやむなく帝位を継いだ」という物語——を守るために、意図的に記録が操作された結果なのである。