曹操が河北を平定中に、なぜ誰も背後を突かなかったのか?
曹操が自ら河北遠征を指揮していた時期、劉表・劉備・孫権の三人は、それぞれが手一杯で、曹操の後方を奇襲する余裕がまったく無かった。官渡の戦い(建安5年、西暦200年)の後、曹操は袁紹一族の残存勢力を完全に掃討するまで、実に七年もの歳月を要した。その間に、冀州・青州・幽州・并州の四州を次々と手中に収め、ついには北方の統一を果たした。
曹操が自ら河北遠征を指揮していた時期、劉表・劉備・孫権の三人は、それぞれが手一杯で、曹操の後方を奇襲する余裕がまったく無かった。
官渡の戦い(建安5年、西暦200年)の後、曹操は袁紹一族の残存勢力を完全に掃討するまで、実に七年もの歳月を要した。その間に、冀州・青州・幽州・并州の四州を次々と手中に収め、ついには北方の統一を果たした。
さらにその後、北辺の烏桓(うかん)征討を成功させることで、曹操は中原以北の全土を掌握したのである。
建安5年(200年):三雄の「忙殺」
この年、官渡の戦いが決着を迎えた。袁紹は許攸(きょゆう)の献策を用いずに烏巣(うそう)を襲わず、逆に許攸は家族が河北で罪を犯したため怨嗟の念を抱き、曹操に帰順した。
「攸夜詣太祖。太祖跣出迎之。」(『三国志・魏書・武帝紀』)
感動した許攸は、烏巣にある袁紹軍の糧秣基地を襲撃する策を献じた。曹操は五千の兵を率い、偽装して烏巣を急襲。守将・淳于瓊(じゅんうけい)を討ち取り、糧秣を悉く焼却した。
「紹衆大潰,紹與子譚等幅巾乗馬,與八百騎渡河。」(『後漢書・袁紹伝』)
劉表:内乱と外交の板挟み
一方、この年、荊州の劉表は内乱に追われていた。
「張羨叛表,表攻之,連年不下。」(『後漢書・劉表伝』)
また同年、劉表は交州牧・張津とも激しく衝突しており、さらに前年には張繍と連携して曹操を攻めたが、多疑な性格ゆえ救援をためらったため、張繍は曹操に降伏。荊州の北方防衛が大きく揺らいだ。
官渡の戦いが始まると、袁紹は劉表に援軍を要請したが、劉表は「両雄の成敗を坐して観よ」と称し、中立を装って動かなかった。
劉備:流離の身
劉備はこの年、まさに「流離の身」であった。
「備遂奔紹。紹遣備将兵至汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹操遣蔡陽攻之,為備所殺。」(『三国志・先主伝』)
やがて袁紹の無能ぶりに失望した劉備は、「劉表と連絡を取る」と称して再び脱出し、汝南を経由して荊州へ向かう。
孫権:兄の死と政権継承
「策陰欲襲許,迎漢帝。未發,為故吳郡太守許貢客所殺。」(『三国志・呉書・孫破虜討逆伝』)
孫権は突然の重責を背負い、内は宗族の不満、外は山越の反乱という極めて不安定な状況に直面した。
建安6年~13年:曹操の北方統一と三雄の停滞
袁紹の死後、曹操は袁譚・袁尚兄弟を次々と討ち、建安9年(204年)に鄴城を陥落。以後、政庁を許都から鄴へ移し、北方統治の中枢とした。
建安10年(205年)に袁譚を滅ぼし冀・青二州を、建安11年(206年)に幽・并二州を平定。建安12年(207年)には烏桓遠征を成功させ、北方統一を完了した。
劉備の「髀肉之嘆」
「備住荊州数年,嘗於表坐起至廁,見髀裏肉生,慨然流涕。」(『晋書・劉元海載記』)
ようやく建安12年、徐庶の紹介で諸葛亮を三顧の礼で迎え、「隆中対」を得て、ようやく戦略的転機を迎える。
孫権:内政整備に専念
「策死時年二十六。權時年十八,以中護軍與張昭共掌衆事。」(『三国志・呉書・呉主伝』)
建安13年、ようやく黄祖を討ち江夏を併合するが、その直後、曹操の大軍が南下を開始。赤壁の戦いへと突入する。
結論
曹操が河北を平定し、北方統一を達成した七年間、劉表・劉備・孫権はいずれも深刻な内政・軍事的課題に直面しており、曹操の後方を襲う余力がなかった。
- 劉表は内乱・外交・防衛に追われ、
- 劉備は寄人籬下の身で実力不足、
- 孫権は内乱鎮圧と政権基盤固めに専念。
「有能な者は恐れて動かず、勇敢な者は忙しく、暇な者は無力」——この三者の状況が重なった結果、曹操は奇跡的にも、背後を脅かされることなく北方統一を果たしたのである。