蜀漢は本当に三国の中で最も弱かったのか?なぜ蜀漢は三国最弱と言われるのか?
古代において、国家の強弱を測る基準は軍事力に他ならなかった。軍事力がなければ他国を打ち破ることなど到底不可能である。そして軍事力の源泉は、その統治領域に住む人口にあった。まずは、各国の兵力と人口について見てみよう。『三国志・呉主伝』および『晋書・地理志』によれば、呉の戸数は五十二万三千戸、人口はおよそ230万人と推定され。
古代において、国家の強弱を測る基準は軍事力に他ならなかった。軍事力がなければ他国を打ち破ることなど到底不可能である。そして軍事力の源泉は、その統治領域に住む人口にあった。まずは、各国の兵力と人口について見てみよう。
1. 蜀漢
『三国志・後主伝』裴松之注引『蜀記』によれば、「(蜀漢の)帯甲(兵力)は十万余、戸数は二十八万」と記されている。この記録から推定される人口は約90万~120万人程度である。兵力はおおむね8万~13万と見られる。
2. 東呉
『三国志・呉主伝』および『晋書・地理志』によれば、呉の戸数は五十二万三千戸、人口はおよそ230万人と推定され、兵力は20万~25万に達していた。呉は中原との大規模な戦闘を避け、相対的に安定した統治を維持していたため、人口は概ね安定、あるいは若干増加していた。
3. 曹魏
『晋書・地理志』には、「魏の戸数は六十六万三千四百二十三戸」とあり、これは初期の推定人口約440万人に相当する。また、『通典』『後漢書』などの記録を総合すると、魏の後期には人口が千万人に達したとの説もある。兵力は40万~50万と、三国中最も強大であった。
このように比較すれば、蜀漢が三国中最も弱体であったことは明らかである。特に、関羽が荊州を失ったことは致命的であった。
「荊州八郡、戸数十万」——『三国志・関羽伝』
その地は人口80万以上を擁する要衝であった。この喪失により、蜀漢は戦略的・人的資源の両面で甚大な打撃を受けたのである。
二、統治領域と経済力
乱世においては、領土の広さがそのまま国力の象徴となった。また、経済力は戦争を継続するための基盤であり、その重要性は言うまでもない。
1. 蜀漢
蜀漢は益州一州のみを領有し、郡数は22郡にすぎなかった。
「務農殖穀、閉関息民」——『三国志・諸葛亮伝』
諸葛亮は農業を奨励し、民を休ませる政策を推し進めた。しかし、彼の北伐は連年続き、
「連年北伐、民疲弊甚し」——『漢晋春秋』
国家財政に常に重圧をかけ続けた。そのため、蜀漢の経済力は三国中最も脆弱であった。
2. 東呉
呉は荊州・揚州・交州の三州を領有し、郡数は32郡に及んだ。
「土地沃饒、海路通じて遠方と交易す」——『三国志・呉書』
江南の肥沃な土地と海上交易の発展により、経済は安定していた。特に孫権の時代には造船技術も発達し、対外貿易も盛んに行われていた。
3. 曹魏
魏は司隷・徐州・青州・豫州・冀州・并州・幽州・兗州・涼州・雍州・荊州(北部)・揚州(北部)の十二州、郡数87郡を統治していた。
「広く屯田を設けて兵糧を蓄え、民を安んじて天下を定む」——『三国志・武帝紀』
曹操は東漢の遺産を継承しつつ、屯田制や軽税政策を導入して北方の経済を急速に回復させた。その結果、魏は三国中で最も強固な経済基盤を築いたのである。
結論
以上のように、軍事力・人口・経済力・領土規模のいずれの面においても、蜀漢は魏・呉の両国に大きく後れを取っていた。『三国演義』のような文学作品では、蜀漢が「正統」の象徴として美化され、しばしば呉よりも強そうに描かれるが、史実に基づいて冷静に評価すれば、蜀漢は確かに三国中最も弱小な政権であったと言わざるを得ない。