なぜ国力が最弱の蜀が三国で最も注目されるのか?蜀漢はなぜ魏や呉より早く滅んだのか?
三国時代における魏・蜀・呉の国力の差は、極めて明確であった。その比を「魏:蜀:呉=7:1:2」と表現することも、決して誇張ではない。魏が圧倒的に強く、蜀が最も弱く、呉はその中間に位置していたのである。蜀漢の領土は、主に益州(現在の四川省)を中心に、一部の雲南・貴州・陝西南部に及んでいたにすぎない。
三国時代における魏・蜀・呉の国力の差は、極めて明確であった。その比を「魏:蜀:呉=7:1:2」と表現することも、決して誇張ではない。魏が圧倒的に強く、蜀が最も弱く、呉はその中間に位置していたのである。
蜀漢の領土は、主に益州(現在の四川省)を中心に、一部の雲南・貴州・陝西南部に及んでいたにすぎない。一方、呉は揚州・荊州の大部分(襄陽を除く)を支配し、今日の江蘇・浙江・安徽・江西・湖南・湖北・福建・広東・広西に相当する広大な地域を有していた。魏はそれ以外の中原全域(新疆・チベット・内モンゴル・東北を除く)を掌握しており、人口・経済・軍事力のすべてにおいて圧倒的優位にあった。
『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝〉には、「益州疲弊、此誠危急存亡之秋也」と記され、蜀の国力の限界がすでに劉備存命中から認識されていたことが窺える。
諸葛亮は南中(雲南・貴州一帯)を平定し(『三国志』巻三十五:「三年春、亮率衆南征、其秋悉平」)、僅かな人的・物的資源を補充した上で、漢中に大軍を駐屯させた。これは、蜀の国力の限界を最大限に引き出した結果であった。
劉備の死後、魏の朝廷は蜀を「既に亡国の域にあり」と判断していた。『晋書』巻一〈宣帝紀〉には、「亮死後、蜀益衰、魏人以為不足慮」とあり、魏の軍事戦略の焦点はすでに呉や北方異民族へと移っていた。そのため、諸葛亮が突如として第一次北伐を敢行した際、魏はまったくの不意を突かれ、南安・天水・安定の三郡が即座に降伏するという事態に至った(『資治通鑑』巻七十一)。
魏が驚愕したのは当然である。一州(益州)の力で、雍州・涼州・秦州といった広大な魏領に攻め込むなど、常識では考えられないことだった。蜀が三国の中で際立って「活躍」したのは、決して国力が強かったからではなく、諸葛亮ら指導者の卓越した能力によって、国力に見合わぬ戦略的成功を収めたからに他ならない。
本来、蜀は三国の中で最も早く滅ぶべき国であった。後の歴史を見ても、西晋が北方の五胡に敗れて「衣冠南渡」し、東晋が建康(呉の旧都)に遷都した事実からも、江南(呉の地)が中原陥落後の最適な拠点であったことがわかる(『晋書』巻六〈元帝紀〉:「中州士女避乱江左者十六七」)。蜀の四川盆地は、確かに「関門して自ら国を為す」(《隆中対》)に適した地形ではあるが、外部への攻勢を維持するには明らかに資源が不足していた。
蜀滅亡の「偶然」:内部混乱と鄧艾の奇襲
蜀の滅亡は、ある意味で「必然」でありながら、同時に「偶然」でもあった。司馬昭が263年に蜀征伐を命じたのは、実は蜀を滅ぼすことが第一目的ではなかった。彼は曹魏内部での権力基盤を固めるため、「征蜀」を名目に軍功を積み、禅譲の準備を進めていたのである(『資治通鑑』巻七十八:「昭欲以功固權、乃議伐蜀」)。
ところが、この遠征は予想外の展開を見せた。蜀内部では姜維が前線(剣閣)にあって朝廷と連携が取れず、後方の防衛体制は混乱していた。一方、魏軍も内部対立を抱えていた。主将・鍾会は司馬昭の真意を理解しており、蜀攻略に消極的だったが、鄧艾はこれに反発し、陰平の小道を奇襲ルートとして選んだ。
『三国志』巻二十八〈鄧艾伝〉には、「艾自陰平道行無人之地七百餘里、鑿山通道、造作橋閣」と記され、その奇策の困難さが伝わる。
もし江油の守将・馬邈が死守していれば、補給を断たれた鄧艾軍は自滅した可能性が高かった。実際、鍾会はすでに退兵を検討していた(『華陽国志』巻七)。
しかし馬邈は即座に降伏し、鄧艾は江油で兵糧と休息を得る。続いて綿陽では、諸葛亮の子・諸葛瞻が優柔不断な指揮をとり、戦機を逸する。最終的に綿竹で野戦に打って出たが、士気高まる魏軍に敗れ、戦死した(『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝附瞻伝〉:「瞻督諸軍至涪、停住不進…遂戰死」)。
結論:呉は「幸運」だったにすぎない
このように、蜀の滅亡は、内部の統制不全と魏軍内部の対立が偶然重なった結果でもあった。もし諸葛瞻が早期に防衛線を固め、あるいは馬邈が抵抗していれば、歴史は変わっていたかもしれない。
結論として、呉が蜀より「優れていた」わけではない。単に魏の第一目標ではなかっただけである。実際、280年の呉征伐は、蜀攻略よりもはるかにスムーズに進み、呉はほとんど抵抗できずに滅んだ(『晋書』巻三〈武帝紀〉)。蜀が三国の中で最も華々しく、そして悲劇的に散ったのは、諸葛亮という稀代の人物が、国力の限界を超えて戦い続けたからに他ならない。