蜀漢はなぜ国力差を知りつつも北伐を続けたのか?諸葛亮の北伐は無謀だった?
これはまさに孫権と同様の過ちではないか。孫権も晩年には「休養生息」を掲げて国政を緩めたが、その結果、豪族が土地を兼併し、軍士の中には俸給を得られず、墓を掘って盗掘に走る者さえ現れた。後に西晋が南下してくると、東呉の防衛線は一触即発の如く崩壊したのである。諸葛亮は『後出師表』において、はっきりとこう述べている。
これはまさに孫権と同様の過ちではないか。孫権も晩年には「休養生息」を掲げて国政を緩めたが、その結果、豪族が土地を兼併し、軍士の中には俸給を得られず、墓を掘って盗掘に走る者さえ現れた。後に西晋が南下してくると、東呉の防衛線は一触即発の如く崩壊したのである。
諸葛亮は『後出師表』において、はっきりとこう述べている。
「賊を伐たざれば、王業もまた亡ぶ」
(『諸葛亮集』所収、『三国志』裴松之注引)
これはまさに蜀漢の現実を端的に言い表している。他のことは措くとしても、ただ食糧面だけを見ても、蜀漢は曹魏に到底及ばなかった。蜀漢が支配していたのは益州・梁州のわずか二州にすぎないのに対し、曹魏は九州を掌握していたのである。
『士民簿』によれば、景耀六年(263年)、鄧艾が陰平を奇襲して蜀を滅ぼした際、蜀漢の国庫には米四十万斛しか残っていなかったという。これは全国民を半年も養えない量である。しかもこれは、大規模な北伐を控えていたにもかかわらずの備蓄量であった。
『士民簿』曰く:
(『三国志・後主伝』裴松之注引)
「米四十余万斛、金銀各二千斤、錦綺彩絹各二十万匹、余物これに準ず」
一方、曹魏の備蓄は桁違いであった。淮北の屯田だけで、年間五百万斛を確保し、六・七年で三千万斛以上の蓄えが可能だった。これは十万人の軍勢を五年間養える量である。
『晋書・食貨志』に曰く:
(『晋書・食貨志』)
「歳に五百万斛を完じて軍資と為す。六七年の間に、淮北に三千万余斛を積むこと可し。これ則ち十万の衆の五年の食なり」
このような圧倒的な国力差の前では、時間の経過は蜀漢にとってただの劣勢の拡大にほかならない。一日経てば、その差はさらに開いていくのである。
仮に万が一、曹魏が二十年もの間、蜀漢を放置したとしても、蜀漢内部はその前にすでに崩壊していたであろう。諸葛亮が存命の間は、その個人的威望によって益州派(地元豪族勢力)を抑えていたが、彼の死後、益州出身の学者・譙周は早々に降伏を唱えた。実際、蜀滅亡の際、彼はまさに降伏を主導した人物である。
北伐は確かに財政を圧迫するが、それは同時に内部矛盾を外に向ける「安全弁」ともなっていた。蜀漢政権内には、
- 荊州派(諸葛亮の嫡系)
- 東州派(劉璋の旧臣)
- 益州派(地元豪族)
という三つの勢力が拮抗しており、戦争がなければ、彼らは内輪で抗争を始めかねなかった。
実際、李厳は諸葛亮の北伐中に後方支援を怠り、自らの地位を引き上げるよう要求した。また、姜維は晩年、宦官・黄皓の専横に恐れをなして成都に帰ることさえできなかった。もし「漢室再興」という大義名分がなければ、蜀漢政権は内部分裂によって八つに裂けていただろう。
したがって、必死の北伐こそが唯一の活路であった。もし涼州を奪取できれば、蜀漢は戦略的縦深を獲得できた。たとえ敗北しても、戦損を最小限に抑えれば、曹魏の統一を遅らせることも可能だった。奇跡を待つ余地も残されていたのである。
もっとも、唯一の希望は呉との連合だったが、孫権の眼中には常に荊州しかなく、蜀漢との真の同盟はついに実現しなかった。これもまた、蜀漢が孤立無援に陥った所以である。