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諸葛亮の北伐は蜀漢を滅ぼしたのか?なぜ諸葛亮は北伐を続けたのか?

蜀漢は建安二十六年(西暦221年)に劉備が皇帝を称して建国され、景耀六年(西暦263年)に魏に滅ぼされた。その国祚はわずか42年であった。一方、諸葛亮の北伐は建興六年(228年)に始まり、建興十二年(234年)に彼が五丈原で死去するまで続いた。その期間は6年間であり、蜀漢の国祚全体の七分の一に相当する。

龍の歩み龍の歩み

蜀漢は建安二十六年(西暦221年)に劉備が皇帝を称して建国され、景耀六年(西暦263年)に魏に滅ぼされた。その国祚はわずか42年であった。

一方、諸葛亮の北伐は建興六年(228年)に始まり、建興十二年(234年)に彼が五丈原で死去するまで続いた。その期間は6年間であり、蜀漢の国祚全体の七分の一に相当する。

北伐の消耗は本当に致命的だったか?

諸葛亮の北伐が蜀地に大きな負担をもたらしたことは否定できない。しかし、その消耗は、関羽が襄陽・樊城を攻めて敗れた「関羽の敗北」や、劉備が夷陵の戦いで大敗した「夷陵の敗北」ほどの規模ではなかった。また、漢中戦役の際に「男子は戦い、女子は運搬せよ」(『三国志・蜀書・先主伝』裴松之注引『魏書』)とまで言われたほどの極限状態にも達していない。さらに言えば、後に姜維が北伐を繰り返した際に「民有菜色」(『三国志・蜀書・姜維伝』)——つまり民衆が飢えて顔色が青ざめていた——という惨状とも比べものにならない。

しかも、諸葛亮が亡くなった後、蜀漢はさらに29年間存続している。その滅亡を、29年前の諸葛亮の北伐による消耗に帰するのは、明らかに牽強付会である。

姜維の北伐は誰の意思か?

「北伐は諸葛亮が始めたものであり、その後も馬岱、廖化、特に姜維が11回も北伐を続けたのだから、彼にも責任があるのではないか」という意見もあるだろう。

だが、まず指摘すべきは、諸葛亮が後継者として指名した蒋琬(しょうかん)と費禕(ひい)の二人は、いずれも北伐に消極的だった点である。蒋琬は約10年、費禕もほぼ同様の期間、政権を掌握していた。その間、姜維は地位・職位・威望・資歴・出身のいずれにおいても、この二人に遠く及ばなかった。にもかかわらず、姜維が北伐を続けられたのは、彼の上に「人」がいたからである。

実際、姜維の北伐は直接劉禅(りゅうぜん)と連携して行われ、帰還後も劉禅に直接報告していた。つまり、姜維の北伐は本質的に「劉禅の北伐」であり、蜀漢最高指導者の承認なくしては実行不可能だった。蒋琬・費禕の反対を無視して動けるはずがない。

北伐は「誤り」か?——歴史的視座からの再検討

国家間の戦争は、古今東西を問わず常態である。今日この瞬間も世界のどこかで戦いが続いている。我が民族が享受している平和は、百年にも満たない極めて短い期間にすぎない。温室の中で育った人々は「平和が当然」だと錯覚しがちだが、自然界の本質は「競争」であり、あらゆる生物が生存をかけて闘い続けている。

ゆえに、「北伐自体が誤り」という見方は誤解である。誤りなのは、「私利私欲のために戦争を起こす」ことである。

荊州喪失の真の痛手:天時・地利・人和の喪失

荊州の喪失は、単に「荊南三郡」「南郡」の領土を失った、あるいは関羽が戦死し、三万の兵士が呉に降った、といった「見える損失」だけではない。

『三国志』に曰く、「建安二十四年、関羽は襄陽・樊城を囲み、水を以て七軍を淹し、威震華夏」(『関羽伝』)。同年、劉備は漢中で夏侯淵を討ち、曹操は翌年(建安二十五年)正月に死去した。まさに「天時在劉、不在曹」(天の時勢は劉にあり、曹にはなし)の好機であった。

ところが、呂蒙の「白衣渡江」により、この好機は潰えた。これは単なる領土喪失ではなく、劉備政権の「天時」そのものを断ち切ったのである。まるで一流アスリートの脚を折るようなもので、失われたのは脚そのものではなく、その先のキャリア全体である。

次に「地利」。蜀は秦嶺に囲まれ、確かに「易守難攻」ではあるが、「蜀道の難しさ」は敵だけでなく自軍にも重くのしかかる。李白が詠んだように、「朝辞白帝彩雲間、千里江陵一日還」(『早発白帝城』)——白帝城から江陵まで千余里も、長江の水路を使えば一日で到着できる。この水路こそが、益州を「閉じ込めない」鍵であった。

しかし南郡を失えば、夷陵山脈が封鎖され、益州から中原に出る道は「祁山より大軍を出すも、諸多の困難あり」(『諸葛亮伝』)となる。

荊州士族の視点:故郷を失った者の悲哀

劉備は建安六年(201年)から荊州新野に拠点を置き、7年間にわたり荊州で勢力を蓄えた。この間に徐庶、諸葛亮、魏延、劉封らが集い、赤壁の戦い(208年)後には南郡を掌握し、荊州牧となる。その後、龐統・黄忠・馬良・楊儀ら荊州士族が次々と加わった。

劉備が益州入りを果たしたのは建安十六年(211年)。つまり、荊州で10年間築いた基盤——とりわけ「荊州士族の支持」——がなければ、益州攻略は不可能だった。実際、入蜀の初陣で謀主は荊州出身の龐統、主将は黄忠・魏延と、すべて荊州人であった。

ところが、関羽の敗北により荊州を失う。もし自分が荊州士族なら、成都の城壁から故郷・江陵を眺めながら、こう思うだろう:

「そこは私の生まれ育った地。父母・一族・友人がいる。郷音、郷土料理、地元の演劇……すべてがそこにある。
今やその地は『大魏呉王』孫権の支配下。やがて孫権が帝位に就けば、それは『呉国』となる。
私たち荊州士族の伐木場、塩田、鉱山、市街地——すべてを失った。
益州の資源は、すでに法正・李厳・黄権ら益州派・劉璋旧臣が独占している。
私たちは、ただの俸禄しか得られない『無産士族』になるのか?」

このような状況下で「荊州を放棄してもいい」というのは、ゲームの発想にすぎない。現実の人間は、感情と利害を抱える存在である。

だからこそ、劉備は夷陵の戦いを避けられなかった。荊州士族への「義理」を果たさねば、彼らの忠誠は崩壊する。実際、龐統は雒城の戦いで命を落としている。その犠牲を無駄にできるだろうか?

しかし、夷陵で敗北し、劉備はまもなく死去。荊州士族の「人和」問題は未解決のまま、諸葛亮に託された。

諸葛亮の権力掌握:南征と政争の裏側

劉備は死の床で諸葛亮に「君可自取」(『三国志・諸葛亮伝』)——「君が望むなら、帝位を取ってもよい」とまで言い、絶大な政治的権限を与えた。劉禅も即位後、諸葛亮を武郷侯に封じ、丞相府を開かせた。

しかし、丞相府に「兵権」がなければ、それは「紙の虎」にすぎない。当時、中央軍は中都護・李厳(りげん)が掌握していた。

諸葛亮は、荊州士族の代表として、「兵権を握らねばならなかった」。そのためには「プロジェクト」が必要だった。南征も、北伐も、その手段である。

建興三年(225年)、諸葛亮は南中平定に赴くが、その前に李厳との権力闘争があった。

李厳は、劉備の托孤の重臣であり、「統内外軍事」(内外の軍事を統括)の任にあった。また、建安二十三年(218年)、越巂郡の高定の反乱を鎮圧した実績もある(『李厳伝』)。

劉備没後、雍闓(ようがい)が南中で反乱を起こすと、李厳が鎮圧すべきだった。しかし、孫権が劉璋の子を「益州牧」として擁立し、南中反乱に介入していたため、李厳は永安(白帝城)を離れられなかった。

この隙を突いて、諸葛亮は李厳の信使・常房(じょうぼう)を「雍闓と通謀」として処刑し、その子を殺し、弟らを流罪にした(『李厳伝』裴注引『諸葛亮集』)。これにより、李厳は「嫌疑を避けて」南征から外された。

その後、諸葛亮は丞相府長史・王連(おうれん)の反対を乗り越え(王連は「南征を諫め、一年余り阻んだ」『王連伝』)、ようやく南征を実行した。

この一連の動きは、単なる「忠臣の行動」ではなく、荊州士族の存続をかけた「政治的生存戦略」だった。

北伐を選んだ理由:劉禅の帝王学と李厳との対立

南征は一時的なプロジェクトにすぎない。戦が終われば、兵権は返上せざるを得ない。

そこで、諸葛亮は「永続可能なプロジェクト」——すなわち「北伐」を選んだ。

表面上は「東呉攻撃」の方が有利に見える。東呉は魏より弱く、長江を下る「順流作戦」は古代では圧倒的有利だ。

しかし、劉禅の立場から見れば、荊州士族に「荊州奪還」を任せることは危険だった。

過去の例を見よ。袁術が孫策に江東攻撃を命じたところ、孫策は独立して戻らなかった。曹操が劉備に徐州攻撃を命じたところ、劉備は車冑を殺して反旗を翻した。

劉禅は、この教訓を熟知していた。彼にとって、荊州士族が故郷を取り戻せば、蜀に戻ってこなくなるリスクがある。

また、李厳との政争の観点からも、北伐の方が有利だった。北伐の拠点は漢中で、守将は魏延。魏延は劉備入蜀時の部将であり、諸葛亮との親和性が高い。一方、李厳は永安におり、北伐には直接関与しにくい。

劉禅は、この構図を理解していた。彼の統治哲学は「忠奸を見極めること」ではなく、「勢力の均衡を保つこと」だった。

『後漢書』に曰く、「周公は流言を恐れ、王莽は未だ簒奪せざる時は謙譲なり」。忠臣か奸臣かは、結果論にすぎない。

劉禅は、李厳と諸葛亮の両方を存続させることで、皇権を安定させた。どちらか一方が倒れれば、もう一方が「司馬懿」になる可能性がある。

結論:北伐は「理想」か「現実」か

諸葛亮の北伐には、多くの解釈がある。

  • 「漢室再興」という理想
  • 「涼州掌握による国力増強」
  • 「政権の正統性の維持」
  • 「防御的攻勢(以攻為守)」

しかし、本稿が強調したいのは、「荊州士族の存続戦略」という現実的側面である。

もし劉禅が北伐を止め、農業・経済発展に専念していたらどうなっただろう?

荊州士族は兵権を失い、益州の資源分配から排除され、やがて離反したであろう。その結果、李厳が独裁し、皇権は危機に陥った。

劉禅は、40年間皇帝として君臨した。それは「愚か者」の所業ではない。彼は、時代の制約の中で「最適解」を選び続けたのである。

歴史に「もし」はない。しかし、諸葛亮の北伐は、単なる「忠臣の悲願」ではなく、蜀漢という脆弱な政権を維持するための「政治的必然」だった——それが、本稿の核心である。


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