劉備と劉璋、同じ益州を治めたのになぜ結果が違うのか?なぜ劉璋は失敗し、劉備は蜀漢を築けたのか?
まず、人材の質とその活用において、劉璋と劉備には顕著な差があった。劉璋が益州を治めていた頃、その下には有能な臣下がほとんどいなかった。例えば法正(ほうせい)は、劉璋の下ではまったく目立たぬ存在であったが、劉備に仕えるや否や、一躍その首席謀士となり、漢中攻略の立役者となった。これはまさに「用人の巧拙」によるものである。
一、人材の違い
まず、人材の質とその活用において、劉璋と劉備には顕著な差があった。
劉璋が益州を治めていた頃、その下には有能な臣下がほとんどいなかった。例えば法正(ほうせい)は、劉璋の下ではまったく目立たぬ存在であったが、劉備に仕えるや否や、一躍その首席謀士となり、漢中攻略の立役者となった。これはまさに「用人の巧拙」によるものである。
陳寿『三国志』巻三十七〈法正伝〉にはこう記されている:
「先主(劉備)之入蜀也、正(法正)為内応、及既克蜀、以正為蜀郡太守、揚武将軍。外統都畿、内為謀主。」
劉璋は人材を識る目がなく、優れた人物を登用することもできなかった。一方、劉備は人材を見抜き、その能力を最大限に引き出すことに長けていた。その結果、劉備の陣営には優れた人材が集まり、蜀漢の基盤が築かれたのである。
たとえば関羽・張飛。二人は『三国志』巻三十六〈関張馬黄趙伝〉に「皆万人之敵也」と称えられた、三国時代において唯一無二の猛将である。彼らは劉備と共に生涯を戦場で過ごし、同時代の諸侯――呂布・袁紹・陶謙ら――が次々と敗死する中、劉備・関羽・張飛の三人だけが長く生き残った。
また、諸葛亮(しょかつりょう)は「千古一相」と称される文武両道の逸材であり、その政治的才能・軍略的慧眼は、三国時代を通じても比類なきものであった。陳寿は『三国志』巻三十五〈諸葛亮伝〉でこう評している:
「亮之為政、開誠心、布公道……邦域之内、咸畏而愛之。刑政雖峻而無怨者、以其用心平而勸戒明也。」
益州に諸葛亮に匹敵する人物は一人もいなかった。彼が劉備に帰属したことは、蜀漢にとって最大の財産であった。
さらに、蒋琬(きょうえん)、費禕(ひい)、董允(とういん)、楊儀(ようぎ)、魏延(ぎえん)、黄忠(こうちゅう)、龐統(ほうとう)、馬良(ばりょう)、馬謖(ばしょく)、向朗(こうろう)らも、後に蜀漢政権の中核を担う人物たちである。益州の土着勢力に、彼らに匹敵する人材が果たして何人いただろうか。
劉備が益州に入った際、自らの本拠地からすべての部下を率いて入蜀した。これにより、益州には劉備の「外来エリート集団」が加わることになった。しかも、劉璋配下の多くの将吏――法正・李厳(りげん)・黄権(こうけん)など――も劉備に降伏し、戦力として吸収された。結果として、益州の人材は文字通り「倍増」したのである。
劉璋は生涯、益州一国に留まり、外部との接触も限られていた。対照的に、劉備は北から南へ、中原から荊州を経て益州へと、中国各地を転戦した。その軍勢は百戦錬磨であり、劉璋の軍とは戦闘力において格段の差があった。
二、内外情勢の違い
次に、政権の安定性という点でも、劉璋と劉備には決定的な差があった。
劉璋が益州を統治していた十数年間、その支配は「東州兵」(中原から流入した流民兵)による武力的抑圧に依存しており、益州豪族との対立は常に潜在していた。『後漢書』巻七十五〈劉焉伝〉にはこうある:
「焉(劉焉)死、子璋代立。……州大吏趙韙等陰結州中豪傑、欲共誅璋。」
趙韙(ちょうい)は劉璋を擁立した人物でありながら、後に反乱を起こしている。また、沈弥(しんび)、婁発(ろうはつ)、甘寧(かんねい)らも反乱を起こし、劉璋は東州兵の力でこれを鎮圧した。
こうした内乱が繰り返されたため、益州は表面的には平穏を保っていたが、実際には「暗流が渦巻いていた」。張松(ちょうしょう)が劉璋に劉備の入蜀を勧めた際の言葉が、その実情を端的に示している。常璩『華陽国志』巻五にはこう記される:
「今州中諸将、龐羲・李異等、皆恃功驕豪、陰懐異志。若不迎劉豫州(劉備)、則外有強敵(張魯・曹操)、内有寇亂、必至傾危。」
劉璋はこの危機を十分に認識していた。曹操が漢中を攻めれば、次は益州が狙われる。しかし劉備を招き入れれば「引狼入室」の危険もある。それでも、劉備には「仁義の名」があったため、劉璋は賭けに出たのである。
一方、劉備・諸葛亮体制下の蜀漢は、外来政権ながらも安定した統治を実現した。諸葛亮は法治主義を貫き、公平・公正な行政を推し進めた。『三国志』巻三十五にはこうある:
「科教厳明、賞罰必信。無悪不懲、無善不顯。」
夷陵の敗北後、益州内部で一時的な反乱が起きたが、諸葛亮が迅速にこれを鎮圧。その後、蜀漢は滅亡まで一度も大規模な内乱を起こさなかった。これは曹魏(司馬氏の簒奪)や孫呉(権臣による皇帝廃立)とは対照的である。
蜀漢は三国の中で最も安定した政権であり、連年の北伐にもかかわらず国内が崩れなかったのは、諸葛亮の政治的遺産によるものである。
三、実力の違い
最後に、軍事的・領土的実力の差も無視できない。
劉璋は生涯、益州一国しか支配しなかった。漢中の張魯(ちょうろ)を何度も攻めたが、いずれも失敗に終わった。『三国志』巻三十一〈劉二牧伝〉にはこう記されている:
「璋數攻魯、不能克。」
そのため、劉璋は劉備を招き入れて張魯を討たせようとしたが、劉備の真の目的は益州の奪取であった。
劉備は入蜀前、荊州の三郡(南郡・武陵・零陵)しか持っていなかった。しかし益州を平定した後、漢中を曹操から奪い、さらに劉封・孟達(もうたつ)に命じて上庸三郡を攻略させ、関羽には襄樊北伐を命じた。関羽は「威震華夏」と称される大勝利を収めている。
劉備の最盛期の領土は、「益州全域+荊州三郡+漢中+上庸三郡」であり、劉璋の単一益州と比べれば、その規模・戦略的価値は格段に上であった。
関羽が荊州を失った後も、蜀漢は益州+漢中を保有しており、劉璋時代より明らかに優位な地政学的位置を占めていた。しかも、諸葛亮の統治下では、倉廩(そうりん)充実、兵糧備蓄も整い、北伐が可能となった。
弱小国が強大な魏に挑み、しかも十数年間にわたり攻勢を維持した例は、中国史上でも稀である。これは、諸葛亮の卓越した統治能力と資源配分の巧みさによるものである。
劉璋は、張魯すら制圧できず、北伐など夢のまた夢であった。同じ益州を基盤としても、その対外的姿勢・戦略的行動力には天と地ほどの差があった。
結語
要するに、劉璋と劉備の差は、単なる「運」や「時勢」ではなく、人材の見識・政権の安定性・戦略的実行力という三つの柱に集約される。
諸葛亮は劉璋を「闇弱」(愚かで弱腰)と評した(『三国志』巻三十五)。これは決して誹謗ではなく、歴史的事実に基づく客観的評価である。
劉璋は守勢に終始し、人材を活かせず、内憂外患に潰された。
劉備は人材を識り、情勢を読み、実力を拡大し、蜀漢という安定政権を築いた。
両者を比較すれば、その差は歴然としている。蜀漢が三国の中でもっとも長く安定した政権として存続できたのは、決して偶然ではないのである。