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劉璋は本当に益州を統治していたのか?なぜ劉璋は劉備を益州に招き入れたのか?

「劉璋を過大評価してはならない。彼は実際、四川盆地すら完全に掌握したことは一度もなかった。たとえば、後に東呉の名将となる甘寧(かんねい)も、劉璋に反旗を翻して荊州へ逃げ込み、黄祖(こうそ)の部下となったのである。」この事実は、王粲『英雄記』(『三国志』裴松之注所引)に明確に記されている:英雄記曰:焉死、子璋代為刺史。

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「劉璋を過大評価してはならない。彼は実際、四川盆地すら完全に掌握したことは一度もなかった。たとえば、後に東呉の名将となる甘寧(かんねい)も、劉璋に反旗を翻して荊州へ逃げ込み、黄祖(こうそ)の部下となったのである。」

この事実は、王粲『英雄記』(『三国志』裴松之注所引)に明確に記されている:

『英雄記曰:焉死、子璋代為刺史。會長安拜潁川扈瑁為刺史、入漢中。荊州別駕劉闔、璋将沈弥・婁発・甘寧反、撃璋不勝、走入荊州。璋使趙韙進攻荊州、屯朐忍。』
(訳:劉焉が死去し、その子・劉璋が後を継いで益州刺史となった。その頃、長安の朝廷は潁川出身の扈瑁(こぼう)を新たに益州刺史に任じ、漢中に赴かせた。これに呼応して、荊州の別駕・劉闔(りゅうこう)および劉璋の部将・沈弥(しんび)、婁発(ろうはつ)、甘寧が反乱を起こしたが、劉璋を攻めきれず、敗れて荊州へ逃げ込んだ。劉璋は趙韙(ちょうい)を派遣し、荊州を攻撃させ、朐忍(くにん)に駐屯させた。)

さらに注目すべきは、劉璋が荊州攻撃のために派遣した趙韙自身が、その後、より大規模な反乱を起こしたことである。

『趙韙素得人心、璋委任之。韙因民怨謀叛、乃厚賂荊州請和、陰結州中大姓、与倶起兵、還撃璋。蜀郡・広漢・犍為皆応韙。』
(訳:趙韙はもとより人心を得ており、劉璋も彼を重用していた。しかし趙韙は民衆の不満に乗じて反乱を企て、荊州に厚く賄賂を贈って和睦を請い、密かに州内の有力豪族と結託し、共に兵を挙げて劉璋を逆襲した。蜀郡・広漢・犍為の三郡はすべて趙韙に呼応した。)

このように、劉璋の統治は内部から常に崩壊の危機に晒されていた。こうした状況下で、彼が「力排衆議」して劉備を益州に招き入れたのは、決して単なる善意や無能ゆえの判断ではなく、深刻な内憂外患に対処するためのやむを得ざる選択であった。

実際、法正や張松らが劉璋に進言した理由もここにある。『三国志・蜀書・劉二牧伝』裴松之注引『漢晋春秋』には次のように記されている:

『後(張)松復説璋曰:「今州中諸将龐羲・李異等皆恃功驕豪、欲有外意、不得豫州(=劉備)、則敵攻其外、民攻其内、必敗之道也。」』
(訳:その後、張松が再び劉璋に諫言した。「今や州内の諸将、たとえば龐羲(ほうき)・李異(りい)らはみな功を恃んで驕り高ぶり、外に心を寄せる気配があります。もし豫州(劉備)を得なければ、外からは敵が攻め寄せ、内からは民衆が反乱を起こし、必ず敗れる道です。」)

このように、劉璋の益州招請は、単なる政治的誤算ではなく、当時の益州が抱えていた深刻な統治危機の反映であった。甘寧の離反、趙韙の大規模反乱、そして龐羲・李異ら有力将軍の離反の兆し——これらすべてが、劉璋政権の脆弱性を如実に物語っているのである。


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