劉璋は本当に益州を支配していたのか?なぜ劉備軍は益州をあっさり制圧できたのか?
「劉璋は益州を完全に掌握していた」といった見解は、史実に照らすと全く妥当性を欠くものである。実際、劉璋が実効支配していたのは蜀郡(成都周辺)とその近隣地域に限られており、その支配力は極めて限定的であった。この点は、諸葛亮・張飛らが益州侵攻の際、白帝城(魚復)に至るまでほとんど抵抗なく進軍できたことからも明らかである。
「劉璋は益州を完全に掌握していた」といった見解は、史実に照らすと全く妥当性を欠くものである。
実際、劉璋が実効支配していたのは蜀郡(成都周辺)とその近隣地域に限られており、その支配力は極めて限定的であった。この点は、諸葛亮・張飛らが益州侵攻の際、白帝城(魚復)に至るまでほとんど抵抗なく進軍できたことからも明らかである。『三国志・先主伝』には次のように記されている:
「先主軍益強、分遣諸将平下属県。諸葛亮・張飛・趙雲等、兵を率いて溯流し、白帝・江州・江陽を定む。唯、関羽は荊州に留まり鎮す。」
この記述からもわかるように、劉璋の支配は江州(現在の重慶)や江陽(現在の瀘州)にまで及んでおらず、これらの要衝は劉備軍によって容易に制圧されたのである。
さらに、劉璋がようやく軍を動かして抵抗を試みた際には、すでに張飛は龐義(ほうぎ)の地を越えて成都に迫っていた。『華陽国志』巻五には次のようにある:
「趙雲は江州より分かれて江陽・犍為を定め、張飛は巴西を攻め、諸葛亮は徳陽を定む。巴西功曹の龔諶(きょうしん)は飛を迎え入れたり。璋の帳下司馬・蜀郡の張裔(ちょうえい)は亮に距(こば)み、陌下(ばくか)において敗れ、裔は退還す。」
この戦いにおいて、張裔は諸葛亮との戦闘に臨んだが、その敗北はあまりにも急激かつ衝撃的であったため、諸葛亮自身が「彼が張飛に殺されるのではないか」と心配するほどであった。『三国志・楊洪伝』には諸葛亮が張裔に宛てた手紙の一節が伝わっている:
「君昔在陌下、営壊れ、吾が用心、食も味を知らず。」
この一文は、当時の戦況がいかに混乱と危機に満ちていたかを如実に物語っている。
こうした事実からも、劉璋が成都にあっても政令が蜀郡の外に及ばぬ「土皇帝」に過ぎなかったことが明らかである。
また、劉備・劉璋の戦いが始まった際、成都では「梓潼(しどう)で焦土作戦を実施し、劉備軍を飢え死にさせよ」という議論がなされたという逸話がある。ところが実際には、劉備軍は梓潼を素通りし、一気に綿陽(綿竹)へと進撃。成都平原へと突入してしまったのである。『三国志・王連伝』には次のようにある:
「劉璋時に蜀に入り、梓潼令となる。先主、葭萌(かびょう)にて起事し、南へ進軍す。連は城を閉ざして降らず。先主はその義を重んじ、強いて逼(せま)らざりき。」
この記述は、劉備が梓潼を迂回したことを裏付けている。一方、『先主伝』には次のように記されている:
「先主は径ち関中に至り、諸将及び士卒の妻子を質に取り、忠・膺等と共に兵を引きて涪(ふつ)に進み、その城を据(す)う。璋は劉璝・冷苞・張任・鄧賢等を遣わし、先主を涪にて拒むも、皆破れて敗れ、綿竹に退保す。」
このように、劉璋側は綿陽(涪)に兵力を集結させようとしたが、劉備軍の進撃速度に完全に後手を踏み、張任らの部隊は「援軍」として到着したはずが、逆に孤立無援の状態で次々と撃破された。まさに「薪を火にくべるが如く」(添油戦術)の悲劇であった。
このような状況を鑑みれば、劉備が劉璋に対して二年もの歳月をかけて攻撃を遅らせたことは、戦略的に極めて損失が大きかったと言わざるを得ない。むしろ当初から正面から攻勢をかけるべきであった。
なお、劉備が益州を平定した後には、貨幣制度・郵政制度・官学の再興といった文治政策を積極的に推し進めた。『典略』には次のように記されている:
「備はここに館舎を起し、亭障を築き、成都より白水関に至るまで、四百余区を設く。」
また、戦乱により荒廃した学問の復興にも力を注いだ。『三国志・許慈伝』にはこうある:
「先主、蜀を定む。喪乱歴紀に及び、学業衰廃す。乃ち典籍を鳩合し、衆学を沙汰す。慈・潜は並びて学士となり、孟光・来敏等と共に旧文を典掌す。然れども庶事草創、動けば多き疑議あり。慈・潜は更に相克伐し、謗讟忿争、声色に形れり。書籍の有無、互いに通借せず、時に楚撻を尋ねて、以て相い震攇す。其の己を矜り彼を妬むこと、この如きに至る。先主は其の若きを愍み、群僚大会を開き、倡家をして二子の容を仮らしむ。」
この逸話は、劉備が単なる武将ではなく、学問と秩序を重んじる統治者であったことを示している。
さらに、劉備は盧植の門下生であり、正統的な儒学教育を受けた「小镇做題家」(地方の秀才)としての出自を持つ。『三国志』の記述からも、劉備が数々の名言・格言を残していることがわかる。曹操がいくら文才に優れていたとしても、政治的・文化的な統治能力において劉備に及ぶことはなかった。
したがって、「劉璋と劉備を文治能力で比較する」などというのは、歴史的事実を無視した滑稽な議論に他ならないのである。