『曹操別伝』の逸話は本当に史実?曹操は本当に故郷で裏切られた?
史料には慎重な検討が必要であり、無批判にすべてを信用してはならない。例えば、ネット上で見つけた以下の記述がある。『曹操別伝』曰く、「操を典軍都尉に拝す。谯・沛に還る。士卒共に叛きて之を襲う。操、脱して身を亡ぼし、平河の亭長の舎に竄ぐ。操、脱して身を亡ぼし、平河の亭長の舎に竄ぐ。自ら『曹済南処士』と称す。
史料には慎重な検討が必要であり、無批判にすべてを信用してはならない。
例えば、ネット上で見つけた以下の記述がある。
『曹操別伝』曰く、「操を典軍都尉に拝す。谯・沛に還る。士卒共に叛きて之を襲う。操、脱して身を亡ぼし、平河の亭長の舎に竄ぐ。自ら『曹済南処士』と称す。足の創を養い八九日、亭長に謂いて曰く、『曹済南は雖も敗る、存亡未だ知るべからず。公、幸いに車牛を以て送らば、往還四五日にして、吾、厚く公に報ぜん』と。亭長、遂に車牛を以て操を送る。未だ谯に至らざる数十里、騎して操を求むる者多し。操、帷を開きて之を示せば、皆大いに喜び、始めて是れ操なるを悟る」。
この文章は、「還谯、沛、士卒共叛」と断句されている。もし本当にこのように読むべきであるならば、「士卒」が谯・沛の出身者とは限らない。従って、「曹操が同郷人に裏切られた」という解釈は成り立たない。
さらに一歩踏み込んで、この記述そのものの信憑性を検討する必要がある。
この逸話は『太平御覧』巻四百四十一に所収されているが、出典は『曹操別伝』という書物である。『曹操別伝』は明らかに野史・逸話類に属するものであり、正史としての信頼性は極めて低い。
実際、陳寿『三国志』の『武帝紀』にはこのような記載は一切なく、裴松之の注釈においても、この逸話は採録されていない。裴松之は『三国志』の注に際し、当時伝わっていた多くの逸話・異伝を幅広く引用しているが(例:『魏書』『英雄記』『江表伝』など)、この『曹操別伝』の記述は意図的に無視された可能性が高い。あるいは、そもそも後世の偽作であったため、裴松之の時代にはまだ存在しなかったのかもしれない。いずれにせよ、この記述は極めて疑わしい。
他の信頼できる史料との照合
まず、曹操が「典軍校尉」に任じられた時期について。
『後漢書・霊帝紀』には次のようにある:
「(中平五年)八月、初めに西園八校尉を置く」。
また、『三国志・張楊伝』裴松之注引『霊帝紀』には詳しい人事が記されている:
「虎賁中郎将袁紹を中軍校尉とし、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉とし、議郎曹操を典軍校尉とし、趙融・馮芳を助軍校尉とし、夏牟・淳于瓊を左右校尉とす」。
これにより、中平五年(西暦188年)8月、曹操が典軍校尉に任じられたことが確認できる。
次に、曹操が洛陽を脱出した時期。
『三国志・武帝紀』にはこうある:
「卓到り、帝を廃して弘農王とし、献帝を立つ。京都大いに乱る。卓、太祖を驍騎校尉と表し、計事を共にせんと欲す。太祖、乃ち姓名を変易し、間道を以て東帰す」。
『後漢書・献帝紀』によれば:
「(中平六年)九月甲戌、即ち皇帝位につく、年九歳」。
従って、曹操が洛陽を脱出したのは、中平六年(189年)9月前後と推定される。
つまり、曹操が典軍校尉として在任していたのは、わずか1年足らずの期間である。その間に洛陽では、霊帝崩御、少帝即位、何進による蹇碩誅殺、董重逼死、宦官誅殺のための外兵召喚、何進暗殺、董卓入京といった激動が相次いでいる。
このような政変の最中に、曹操がわざわざ兵を率いて故郷の谯・沛(現在の安徽省亳州市一帯)へ帰還するというのは、極めて不自然である。曹操は当時、袁紹派閥の一員として洛陽に留まり、軍権を握っていた立場にある。政局の急変期に、地方へ赴く理由が見当たらない。
もし曹操が何らかの軍事行動のため出征したのであれば、他の将軍の出征は明確に記録されている。例えば『後漢書・霊帝紀』には、
「下軍校尉鮑鴻を遣わし、葛陂の黄巾を討つ」、
「巴郡板楯蛮反し、上軍別部司馬趙瑾を遣わし、これを討ち平ぐ」
とある。こうした「歴史の端役」の行動すら記録される中で、曹操の出征が一切記されていないのは、そもそもそのような事実がなかったからと考えるのが自然である。
さらに、当時の「三互法」(地方官が故郷に赴任することを禁じる制度)を考慮すれば、朝廷が曹操を故郷の谯・沛へ兵を率いて派遣する可能性は極めて低い。
逸話の内容的不自然さ
以上より、曹操が典軍校尉在任中に谯・沛へ帰還したという『曹操別伝』の記述は、事実と異なる可能性が高い。
また、この逸話には内容的にも不自然な点が多い。
第一に、中平六年当時、天下はまだ完全な大乱状態には至っていない。曹操が率いていたのは西園八校尉に所属する中央軍(西園軍)であり、士卒が突然集団で反乱を起こす動機が不明である。
第二に、曹操が亭長の家に匿われた際に「曹済南処士」と自称している点。これは、かつて曹操が「済南相」を務めた経歴と姓を組み合わせたものだが、逃亡中の身でこのような名乗り方をすれば、かえって正体がばれやすくなる。これは逸話としての脚色が強く、現実味に欠ける。
結論
結論として、『曹操別伝』に見えるこの逸話は、後世の創作あるいは誇張が混入したものと考えるべきであり、史実として採用するのは極めて危険である。