曹操はなぜ故郷で募兵中に兵士に襲われたのか?劉備は曹操の募兵失敗をどう見たのか?
この件については、まず劉備に尋ねるべきであろう。「霊帝末年、備嘗て京師に在り、後、曹公と倶に沛国に還り、募召して衆を合す。」——『英雄記』すなわち、曹操が故郷に帰って兵を募った際、劉備はすでに京師におり、その後曹操と共に沛国へ戻った。したがって、劉備はその事情をよく知っていたに違いない。では、曹操が兵を募った理由とは何か。
この件については、まず劉備に尋ねるべきであろう。
「霊帝末年、備嘗て京師に在り、後、曹公と倶に沛国に還り、募召して衆を合す。」
——『英雄記』
すなわち、曹操が故郷に帰って兵を募った際、劉備はすでに京師におり、その後曹操と共に沛国へ戻った。したがって、劉備はその事情をよく知っていたに違いない。
では、曹操が兵を募った理由とは何か。
実は極めて単純である。
「霊帝末、天下乱れ、帝、所寵の小黄門蹇碩を西園上軍校尉とし、軍を京都に置き、以て四方を御せんと欲す。天下の豪傑を徴して偏裨と為す。太祖(曹操)及び袁紹等、皆校尉と為り、之に属す。」
——『後漢書・何進伝』
西園八校尉の軍は、既存の宿衛禁軍から編成されたものではなく、新たに募兵によって組織された新軍であった。蹇碩が上軍校尉として他の七校尉を統括する一方で、自らの直属部隊も必要だった。
例えば、『後漢書・張楊伝』には次のようにある:
「并州刺史丁原、楊をして兵を将いて碩に詣らしむ。仮司馬と為す。」
——『後漢書・張楊伝』
これは、地方勢力が中央の西園軍に兵を送り込む一例である。
さらに、『後漢書・孝霊帝紀』には大規模な閲兵の様子が記されている:
「乃ち詔して進をして四方の兵を大発せしめ、平楽観下に於いて講武す。大壇を起し、上に十二重の五采華蓋を建つ。高さ十丈。壇の東北に小壇を設け、復た九重の華蓋を建つ。高さ九丈。歩兵・騎士数万人を列し、営を結んで陣を為す。天子自ら軍に臨み、大華蓋の下に駐し、小華蓋に進む。礼畢り、帝躬しく甲を擐(はお)り介馬(がいば)し、「無上将軍」と称して、陣を三匝して還る。詔して進をして悉く兵を領し、観下に屯せしむ。是の時に、西園八校尉を置く。小黄門蹇碩を上軍校尉とし、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉とし、屯騎都尉鮑鴻を下軍校尉とし、議郎曹操を典軍校尉とし、趙融を助軍校尉とし、淳于瓊を佐軍校尉とし、また左右校尉有り。帝、碩の壮健にして武略有ることを以て、特(こと)に親任し、元帥と為し、司隷校尉以下を督す。大将軍すら亦、之に領属す。」
——『後漢書・孝霊帝紀』
この記述から見ると、まず兵を召集し、その後閲兵を行い、その場で西園八校尉の任命が発せられたように見える。だが、実務的に考えて、このような手順はあり得ない。実際には、まず任命が決定され、その上で各校尉が自らの配下となる兵を募り、京師に集結したのである。
表向きには大将軍・何進が天子の詔を受けて四方の兵を召集したが、裏では西園八校尉がそれぞれ人脈を駆使して兵を募っていた。つまり、各校尉には一定の編成枠(定員)が与えられており、少なくとも形式上は「満員」で閲兵に臨まねばならなかった。そうでなければ、他の校尉が満編成である中、自分だけが兵員不足で閲兵に臨むなど、到底許されなかったであろう。
このため、曹操は「典軍校尉」に任ぜられるとすぐに故郷・譙へ戻り、急いで兵を募ったのである。
「操を典軍都尉に拝す。譙に還る。沛の士卒共に叛き、之を襲う。操、脱して身を亡ぼし、平河亭長の舎に竄ぐ。曹済南の処士と称し、足の創を八九日養う。亭長に謂いて曰く、『曹済南は雖も敗る、存亡未だ知らず。公、幸いに車牛を以て相送せば、往還四五日、吾、厚く公に報いん。』亭長、乃ち車牛を以て操を送る。譙に至らんとする数十里、騎して操を求むる者多し。操、帳を開きて之を叱す。皆大いに喜び、始めて是れ操なるを悟る。」
——『曹瞞伝』(『三国志』裴松之注引)
ここで「典軍都尉」とあるが、他史料(『後漢書』『三国志』)と照らし合わせると、「典軍校尉」の誤記と見るのが妥当である。
この時点ではまだ漢霊帝が存命であり、黄巾の乱も一応鎮圧されており、世はまだ「太平」の体をなしていた。曹操は国家の高級武官として故郷に帰り、主に曹氏の私兵(僮僕)や地元の職業兵、あるいは兵士になる意思のある郷人を募ったに過ぎない。
募集条件に納得すれば応募する——それだけの話である。ここには、せいぜい曹氏家臣団との人身的従属関係、あるいは郷人との雇用関係しか存在しない。ましてや、死に物狂いの怨恨や利害対立など、到底考えにくい。
しかも、この募兵は一時的な戦闘部隊ではなく、天子直属の「西園軍」として国家編制に組み込まれる長期的な職業軍人となるものであった。いわば「安定した飯の種」である。
それにもかかわらず、「士卒共に叛き、之を襲う」という事件が発生したのは、極めて不自然かつ不可解である。
「士卒共に叛く」とは、新しく募った兵士たちが短期間のうちに一致団結して反乱を起こしたことを意味する。彼らは、安定した軍職を捨て、国家高官を襲撃するという重罪を冒し、さらに地元の有力豪族・曹氏と敵対するリスクをも顧みなかった。
一体なぜか?
考えられる理由は以下のいずれかであろう。
- 曹操が提示した待遇が虚偽であり、兵士たちが深刻な裏切りを感じた。
- 募兵を名目としながら、実態は曹氏の私兵強制徴用(事実上の「拉致」)であった。
- 曹操の軍律が極端に苛烈で、耐えがたいものであった。
いずれにせよ、曹操は大多数の兵士の「核心的利益」を著しく侵害し、公憤を買ったとしか考えられない。
興味深いのは、曹操がこの教訓を全く活かさなかったことである。
「太祖兵少しく、乃ち夏侯惇等と揚州に詣りて兵を募る。刺史陳温・丹陽太守周昕、兵四千餘人を与う。龍亢に還るに及び、士卒多叛す。」
——『三国志・武帝紀』裴松之注引『魏書』
「揚州刺史陳温、素より洪と善し。洪、家兵千餘人を率いて温に就き、兵を募り、廬江の上甲二千人を得る。東に丹陽に至り、復た数千人を得て、太祖と龍亢に会す。」
——『三国志・曹洪伝』
「兵謀叛し、夜、太祖の帳を焼く。太祖、手に剣を執りて数十人を斬る。余皆披靡(ひび)して、乃ち営を出ず。其の叛かざる者、五百餘人なり。」
——『魏書』(『三国志』裴松之注引)
曹操・夏侯惇は揚州・丹陽で計四千人以上、曹洪は廬江・丹陽で合計五千人以上を募り、総勢ほぼ万人に達した。ところが、帰路の龍亢で「兵謀叛」が発生。最終的に残ったのはわずか五百人余り。
これは、百人採用して、まだ現場にも着かぬうちに五人しか残らないようなものである。一体何が起きたのか?
しかも、「叛かざる者五百餘人」の中には、元々の家兵(曹洪の千人、曹操・夏侯惇の私兵)も含まれている。つまり、新規募兵はほぼ全員が逃亡または反乱に加担し、家兵すら半数以上が戦死または離反した可能性が高い。
漢末三国の時代、いかに混乱期とはいえ、曹操ほど募兵に失敗した武将は他にいない。故郷での募兵、縁故を頼りにした募兵——それですら、帰路で集団反乱に遭い、重傷を負ってかろうじて逃げ延びるという体たらく。実に不可解かつ異常である。
惜しむらくは、詳細な記録が残っていないことである。曹操は一体何をしたのか?どのような暴政・詐欺・強制が兵士たちの怒りを買ったのか?その真相は、今となっては推測の域を出ない。
ただ一つ確かなのは、劉備はこの曹操の「実態」を間近で見ており、その失敗を深く戒めとしていたであろう、ということである。