漢献帝は本当に曹丕に跪いたのか?禅譲後の漢献帝、どんな生活を送っていた?
曹丕は、かつて漢献帝が曹操に与えた「魏公」の待遇を、そのまま漢献帝自身に逆に適用したのである。すなわち、「入朝不趨(にゅうちょうふすう)」「贊拝不名(さんぱいふめい)」「剣履上殿(けんりじょうでん)」「出警入蹕(しゅつけいにゅうひつ)」といった、天子に準じた特権を授けたのである。さらに、郡県を封国とし、食邑一万戸を与え。
曹丕は、かつて漢献帝が曹操に与えた「魏公」の待遇を、そのまま漢献帝自身に逆に適用したのである。すなわち、「入朝不趨(にゅうちょうふすう)」「贊拝不名(さんぱいふめい)」「剣履上殿(けんりじょうでん)」「出警入蹕(しゅつけいにゅうひつ)」といった、天子に準じた特権を授けたのである。
さらに、郡県を封国とし、食邑一万戸を与え、その国内においては君主として振る舞い、官吏・民衆は皆「臣」として仕えることを許された。九錫(きゅうしゃく)を加え、天子の礼楽を用い、十二旒(じゅうにりゅう)の冕冠(べんかん)を着用することも認められた。宗廟を建立し、天子の車服を用いて天地を郊祀(こうし)することも許された。また、漢の正朔(せいさく)を継続し、火徳に従った服色(ふくしょく)を用いることも許された。延康元年から十四年(曹操の死後、劉協が改元した年号。これが東漢最後の年号であり、退位後14年目に劉協は崩御)まで、こうした待遇は維持された。
ただし、漢献帝が曹操に与えたのは「十万戸」および「郡国」であったのに対し、曹丕が劉協に与えたのは「一万戸」と「一県」にすぎない。また、漢献帝は魏帝に謁見する義務はなく、逆に魏側は彼が封地・山陽国(現在の河南省焦作市)を離れ、洛陽に戻ることを禁じていた。したがって、「入朝不趨」や「剣履上殿」などは、実際には「朝廷に参内しない」ため、形式上の特権に過ぎなかった。ただし、魏帝の詔書に対しては「受詔不拝(じゅしょうふはい)」、すなわち跪拝の必要がなく、上書の際も「臣」と称する必要がなかった。山陽国内では、彼が自らの小朝廷において剣を佩き、履物を履いたまま殿上に昇ることも自由であった。
よって、現代のドラマなどで「劉協が退位後に曹丕に跪く」や「十二章の冕服を着用できなくなる」といった描写は、史実に反する。劉協はあくまで「遜位(そんい)」あるいは「禅譲」として帝位を譲ったのであり、廃位されたわけではない。曹丕・曹叡もまた、彼の封地に足を踏み入れることはなく、「皇は皇を見ず(皇不見皇)」という原則のもと、互いに跪拝することなく、無用な対立を避けていたのである。
「劉協と曹節が山に薬草を採りに行き、民衆を診療した」といった逸話は、後世の野史が劉協への同情から創作したものである。実際には、劉協は依然として大貴族であり、その身分は「君主」そのものであった。彼は魏国における「賓(ひん)」、すなわち臣下でも平民でもなく、国家の賓客として遇されていた。したがって、「鐘鳴鼎食(しょうめいていしょく)」の生活を送っていたが、決して「閑雲野鶴(かんうんやかく)」のような自由な隠遁生活を送っていたわけではない。山陽公国を一歩も出ることは許されなかったのである。
一方で、彼には実質的な統治権も与えられていた。例えば、宦官を処罰し、侍衛を杖責し、宮女に足を洗わせること(高祖劉邦の好んだ習慣)、国相や吏民からの跪拝を受け入れ、国内の軽犯罪者を赦免し、税賦を徴収し、貧者を救済し、年始に賞与を下賜することなど、すべてが可能であった。また、十二章の冕服を着て天地・祖先を祭祀し、庶子を排除して嫡孫を後継者に立てることもできた。実際、劉協が崩御した後、嫡孫の劉康が山陽公を継承している。
ただし、これはあくまで「山陽公国」における権限であり、「天子としての権能」ではなかった。劉協は、現代でいえば「ルクセンブルク大公」のような存在であった。ルクセンブルクの面積は約2,580平方キロメートルであるが、焦作市の面積は約4,071平方キロメートルと、それよりも広い。しかし、三国時代の総人口は、前漢・後漢の最盛期の三分の一以下にすぎず、一万戸の封邑は当時としては極めて大きなものであった。
実際、劉協は当時、天下最大の諸侯であり、天子の礼楽を用いる唯一の人物でもあった(ただし、その行使範囲は山陽公国内に限定され、子孫は爵禄を継ぐのみで、実職官吏となることは許されなかった)。魏・呉・蜀のいずれの国においても、異姓功臣や王位に封じられなかった同姓功臣で、実封一万戸を保有する者は一人もいなかった。諸葛亮でさえ、「田十五頃、桑八百株」しか与えられていない。魏国の有力者である曹洪・曹仁ですら、二~三千戸程度であり、曹真も晩年になってようやく2,900戸に達した。曹植や劉永、劉理などの親王ですら、一万戸に達していない。それに対し、劉協の山陽公国は初めから一万戸であり、その全税収は彼の私的収入となった。その礼遇は諸侯王を上回っていたのである。
なお、古代の焦作は決して貧しい地ではなかった。環境も良好で、満寵(ばんちょう)も山陽の出身であり、「竹林の七賢」が隠棲・飲酒した地も山陽国内に含まれていた。厳密には、竹林の七賢は、漢献帝の孫の領地で活動していたことになる。
史実において、中老年の劉協は極めて裕福な生活を送っていた。曹操によって正室と二人の皇子を殺害された悲しみは癒えなかったであろうが、決して「躬耕於壟畝(きょうこうおろうぼ)」や「薬草を採って生計を立てる」ような生活ではなかった。当時の天下で、劉協と曹節夫妻ほど裕福な王公貴族は、魏・呉・蜀の三帝を除けば存在しなかったであろう。
山陽公国内では、劉協は自由に巡幸することもできた。例えば、天子専用の金輅(きんろ:六馬牽引の高車)に乗って雲台山へ赴き、毎年冬至には昊天上帝を郊祀し、正月元旦には形式的な朝会を開き、十二旒の冕服を着て太祖高皇帝(劉邦)、世祖光武皇帝(劉秀)をはじめとする漢の七廟を祭祀した。彼が「恐れて祭祀を遠慮する」ことはなく、仮にそうしたとしても、曹魏側が「二王三恪(におうさんかく)」の原則に基づき、自ら祭祀を促したであろう。なぜなら、去位しても「祭祀を絶たず(去位而不絶祀)」が、古代中国の礼制の根本であったからである。
史書による裏付け
『三国志・魏書・文帝紀』にはこう記されている:
黄初元年十一月癸酉、河内之山陽邑万戸を以て漢帝を奉じて山陽公と為す。漢の正朔を行ひ、天子の礼を以て郊祀し、上書して臣と称せず。京師に太廟の事有れば、胙(そう)を致す。公の四子を列侯に封ず。
また、『後漢書・孝献帝紀』には次のようにある:
冬十月乙卯、皇帝遜位し、魏王丕天子を称す。帝を奉じて山陽公と為し、邑万戸、位は諸侯王の上に在り、奏事して臣と称せず、詔を受けて拝せず、天子の車服を以て天地を郊祀し、宗廟・祖・臘(ろう)皆漢制の如し。山陽の濁鹿城(たくろくじょう)に都す。四皇子の王者、皆列侯に降す。……遜位より薨(こう)に至るまで十有四年、年五十有四にして、諡(おくりな)を孝献皇帝と為す。八月壬申、漢天子の礼儀を以て禅陵(ぜんりょう)に葬す。園邑令丞を置く。
劉協の崩御後、魏の明帝・曹叡は自ら喪服を着て哀悼し、大赦を布告している。これは天子崩御の礼制に準じたものである。裴松之注によれば:
帝、服を変じ、群臣を率いて哭(なき)し、使節を遣わし司徒・太常・和洽(かこう)をして弔祭せしめ、また使節を遣わし大司空・大司農・崔林(さいりん)をして喪事を監護せしむ。詔して曰く:
「……今、山陽公を追諡して漢孝献皇帝と為す。冊を贈り、璽綬(しじゅ)を授く。司徒・司空をして節を執りて弔祭・喪事を護らしめ、光禄・大鴻臚を副とし、将作大匠・復土将軍をして陵墓を営ましむ。百官群吏・車旗服章・喪葬の礼儀、悉く漢氏の故事の如くす。喪葬に供する群官の費、皆大司農に仰ぐ。其の後嗣を立てて山陽公と為し、三統(さんとう)を通じ、永く魏の賓と為さしむ。」
また、明帝は追悼冊文において、劉協の功績を高く評価し、その死を「高朗令終(こうろうれいしゅう)」、すなわち「高潔にして円満な最期」と称えている。葬儀当日、明帝は「錫衰弁絰(しゃくすいべんてつ)」を着て、「哭之慟(なきいとおしむ)」と記録されている。興味深いことに、曹丕の死の際には、明帝はこれほどまでに哀悼の意を示していない。
劉協の嫡孫・桂郷侯劉康が、その後を継いで第二代山陽公となった。
結語
このように、漢献帝劉協は、禅譲後も「去位の天子」として極めて高い礼遇を受け、実質的な統治権と豊かな生活を享受した。彼は決して「失脚した亡国の君」ではなく、「魏の賓客」として、王朝交代の礼制の象徴として、その生涯を全うしたのである。