なぜ北魏の孝文帝は漢化政策を推し進めたのか?南斉はなぜ北伐できなかったのか?
南斉は北伐を望まなかったわけではない。むしろ内政の不安定と、北魏孝文帝という強敵に直面したため、その機会を逸したのである。南北朝時代の歴史は実に興味深く、南北両朝ともに明君を輩出した。終盤に至っても、果たしてどちらが天下を統一するか、容易には見通せなかった。多くの人々は、孝文帝といえば漢化政策に熱心で。
南斉は北伐を望まなかったわけではない。むしろ内政の不安定と、北魏孝文帝という強敵に直面したため、その機会を逸したのである。南北朝時代の歴史は実に興味深く、南北両朝ともに明君を輩出した。終盤に至っても、果たしてどちらが天下を統一するか、容易には見通せなかった。
多くの人々は、孝文帝といえば漢化政策に熱心で、漢文化を深く愛した君主という印象を抱いている。実際、彼は自らの鮮卑姓「拓跋」を廃し、漢姓「元」を称し、さらには黄帝の末裔であるとまで自称した。しかしこれらはすべて表層にすぎない。孝文帝が漢化を推し進めた真の目的は、南朝を併合し天下を統一することにあった。その夢を実現するためには、漢人から「異民族の皇帝」として拒絶されることを回避せねばならなかった。この戦略的思惑こそが、漢化政策の根幹であった。
漢化と並行して、孝文帝は人心掌握の政策も展開した。彼は河南辺境に住む敕勒(しゃくれい)蛮族が南朝民衆を略奪・奴隷化することを禁じ、かつての北魏の政策を公然と「誤り」と断じた。その詔(みことのり)にはこうある:
「比(このごろ)聞く、縁辺の蛮、多く窃掠(せつりゃく)ありて、父子乖離(かいり)、室家分絶(ぶんぜつ)す。これ既に和気を損い、仁厚を傷つくるものなり。方(まさに)一区宇(いっきゅうう)し、万姓を子育(しよう)せんとするに、もし苟(いやしく)もかくのごとくならば、南人(なんじん)豈(あに)朝徳(ちょうとく)を知らんや?
荊(けい)、郢(えい)、東荊(とうけい)の三州に詔して、蛮民を勒(かく)し、侵暴(しんぼう)あること勿(なか)れ。」
——『魏書・孝文帝本紀』
また、孝文帝は自ら南征を繰り返し、長江北岸まで兵を進めている。ある時、魏軍が南斉兵三千人を捕虜とした際、彼は即座に釈放を命じた。その理由をこう述べた:
「戊午(ぼご)、軍士、蕭鸞(しょうらん)の卒三千を擒(とら)う。帝曰(いわく):『君に在(あ)れば君の為(ため)なり。その民、何の罪ありや?』
これにより、免じて帰さしむ。辛酉(しんゆう)、車駕(しゃが)、鍾離(しょうり)を発し、江水(こうすい)に臨(のぞ)まんとす。」
——『魏書・孝文帝本紀』
このように、孝文帝は「敵は蕭氏の朝廷であって、南朝の民ではない」と明言し、民衆への配慮を示した。こうした人心掌握と漢化政策は著しい効果を挙げ、彼の存命中に北魏はすでに南斉の南陽(現在の河南省南陽市)、新野(しんや)などの要衝を占領した。彼の死後まもなく、宣武帝の時代には南斉の寿春(現在の安徽省寿県)の将軍が北魏に帰順。北魏の版図はついに淮河を越え、南朝とは合肥(ごうひ)を境とするに至った。この時点で、北魏はもはや「北方政権」ではなく、淮南の寿春や義陽(現在の河南省信陽市)もその領土となっていたのである。
一方、南斉は内乱が絶えず、国力は急速に衰退していた。斉明帝、斉東昏侯(とうこんこう)はいずれも昏庸かつ残虐で、民心を失っていた。さらに深刻だったのは、南渡(なんと)した華北貴族(いわゆる「衣冠南渡」の家系)がすでに腐敗・没落しており、州県の長官すら基本的な公文書も読解できない有様であった。これでは北魏に抗する力などあり得なかった。
かくして北魏は天下統一の勢いを見せていたが、新たな危機に直面する。一方の南朝では、梁武帝蕭衍(しょうえん)という英主が台頭し、南斉を倒して梁朝を創始した。
しかし、蕭衍に対する世間の評価は往々にして偏っている。彼は仏教篤信者として知られ、数多の寺院を建立し、最終的には侯景(こうけい)の乱で敗死した——これが一般的なイメージである。だが実際には、蕭衍の政治的知性は劉裕(りゅうゆ)や陳覇先(ちんはせん)をも凌駕していた。
彼が仏教を国策として推進したのは、単なる信仰心からではない。劉裕の北伐が完全に成功しなかった教訓を踏まえ、彼は「北方にはすでに純粋な漢人ばかりでなく、多数の胡人も居住している」と認識していた。胡人は仏教を信仰しており、漢人皇帝が仏教を尊崇し「護法の王」として振る舞えば、胡人の支持を得られる。さらに、仏教を通じて胡人の戦闘的・暴戾な気性を和らげ、統治の安定を図ることも可能だった。
また、蕭衍は貴族による官職独占を打破し、平民・寒門(かんもん)出身の有能な人材を登用する制度を創始した。彼は国子監(こくしかん)に「五館(ごかん)」を設け、学識ある貧民子弟を無制限に受け入れ、修了後は中央官僚として任用した。さらに画期的な「職権分離制度」を導入し、貴族出身だが無能な者には宰相や州刺史といった高位を与えつつ、実務は一切担当させず、給与のみ支給した。
実務は、寒門出身ながら真に有能な「中書舎人(ちゅうしょしゃじん)」に委ねられた。地方行政も同様で、実務は平民出身の「従事(じゅうじ)」が担った。『隋書』の「附蕭梁官制」にはこう記されている:
「帝、後進を招来(しょうらい)せんと欲す。五館の生徒、皆寒門の俊才を引く。人数を限らず。
大同七年(541年)、国子祭酒(こくしせいしゅ)到溉(とうがい)等、正言博士一人を置くことを上表す。その位は国子博士に準ず。助教二人を置く。
国の政事、すべて中書省に由(よ)る。中書舎人五人あり、主事十人を領し、書吏二百人を統べる。書吏不足すれば、助書をもって補う。
二十一局の事を分掌し、尚書省諸曹に当たる。すべて上司となり、国内の機要を総括す。尚書は唯(ただ)聴受(ちょうじゅ)するのみなり。」
——『隋書・附蕭梁官制』
こうした仏教政策と平民登用策は、当初大きな成果を挙げた。蕭衍は陳慶之(ちんけいし)を派遣して北伐を敢行し、北魏の首都洛陽を陥落させ、自ら冊封した魏帝を擁立した。梁軍は河南の大梁(現在の開封)を攻略し、劉裕すら成し得なかった「黄河を渡る」という偉業を達成した。
「天穆(てんぼく)と十餘騎、北に河を渡る。高祖(こうそ=蕭衍)、再び手詔を賜い、称美す。
慶之の麾下(きか)、悉(ことごと)く白袍(はくほう)を著(き)す。所向(しょこう)披靡(ひび)す。
先んずるに洛陽の童謡あり:『名師大将、自ら牢(ろう)をなす勿(なか)れ。千兵万馬、白袍を避く』。
銍県(ちつけん)より発して洛陽に至るまで、十四旬(140日)にして三十二城を平らげ、四十七戦、所向無前(しょこうむぜん)なり。」
——『梁書・陳慶之伝』
しかし、蕭衍は決定的な盲点を抱えていた——それは「最下層の民衆」への配慮の欠如である。彼の政策は皇族や官僚機構の安定には貢献したが、庶民にとっては却って負担を増す結果となった。
かつては、無能な貴族出身の宰相や太守一人を養えば済んだ。彼らが文盲であろうと、せいぜい「悪代官」で終わる。ところが蕭衍の制度下では、一人の宰相に加え、実務を担う中書舎人を、一人の太守に加え、実務を担う従事を、それぞれ養わねばならなくなった。しかも、平民出身の官僚が必ずしも清廉とは限らない。むしろ苦労して這い上がった者ほど、一旦権力を握れば貪欲になる傾向があった。
こうして民衆の不満は蓄積し、ついに東魏の叛将・侯景が梁に亡命し、後に反乱を起こした際、梁の国内はすでに「民怨沸騰(みんえんふっとう)」の状態にあった。各地で反乱が勃発し、忠臣・陳覇先ですら、建康(南京)へ向かって侯景を討とうとしたが、広州や交州(ベトナム北部)の土民が蜂起したため、まず内乱鎮圧に奔走せざるを得なかった。彼らが侯景と通じていたわけではない。ただ、生計の窮迫ゆえに反乱を余儀なくされたのである。
「高祖(こうそ=陳覇先)、中直兵参軍(ちゅうちょくへいさんぐん)として、府に随(したが)い鎮(ちん)に之(ゆ)く。
映(えい)、高祖に命じて士馬を招集せしむ。衆、千人に至る。仍(すなわ)ち高祖を命じて宋隆郡(そうりゅうぐん)を監(かん)す。
所部の安化二県、元より賓(ひん)せず。高祖これを討ち平らぐ。
俄(やが)て西江督護・高要郡守を監す。
土人李賁(りほん)、数州の豪傑と連結して同時に反す。台(たい=朝廷)は高州刺史孫冏(そんけい)、新州刺史盧子雄(ろしゆう)を遣わし兵を率いしむ。冏等、時に進まず、皆、広州において伏誅(ふくちゅう)す。」
——『陳書・高祖本紀』
こうして梁武帝蕭衍は、自らが築いた南朝統一天下の夢を、自らの目で崩壊させる羽目となった。これに対し、孝文帝はまだ幸運だったと言える。彼は六鎮の乱によって北魏の統一夢が砕ける前に早逝しており、その生涯の終わりまで、北魏は隆盛を保っていた。
北魏も、南梁も、南北両朝はいずれも明君を擁し、天下統一への努力を重ね、一時はその成果さえ見せた。しかし、歴史は無情にも前進し続ける。最終的に天下を統一したのは、父・楊忠(ようちゅう)が漢人と胡人の混血で無名の辺将であり、母・呂苦桃(りょくとう)が山東の農民の娘という、いささか「出自が地味」な人物——隋の文帝・楊堅(ようけん)だったのである。