劉裕は本当に慕容垂より優れた将軍だったのか?なぜ劉裕の戦績は過小評価されているのか?
一部の人々は、慕容垂の相手の方が劉裕の相手よりも強かったと主張するが、これは多くの客観的条件を無視している。例えば、慕容垂が破った桓温は、単に一軍を率いて北伐したにすぎず、完全な「客地作戦」の状態であった。劉牢之も同様である。したがって、劉裕と慕容垂の戦績を比較するには、慕容垂が西燕・翟魏を滅ぼした戦いと。
一部の人々は、慕容垂の相手の方が劉裕の相手よりも強かったと主張するが、これは多くの客観的条件を無視している。例えば、慕容垂が破った桓温は、単に一軍を率いて北伐したにすぎず、完全な「客地作戦」の状態であった。劉牢之も同様である。したがって、劉裕と慕容垂の戦績を比較するには、慕容垂が西燕・翟魏を滅ぼした戦いと、劉裕が南燕・盧循勢力を討った戦いを対比すべきである。
一、南燕と西燕
(1)南燕
慕容徳が北魏と滑台で争っていた頃、その陣営にはすでに多数の漢人謀士が集まっていた。彼らの献策により、慕容徳は青斉(せいせい)の地を拠点として南燕を建国するに至った。特に潘聡(はんそう)は、青斉の地理的優位性について次のように述べている。
「青斉は沃壌にして『東秦』と称され、土地方二千、戸十余万、四塞の固さと海の富を兼ね備え、まさに武を用いる国なり」
(『晋書・慕容徳載記』)
『晋書・慕容徳載記』には、慕容徳が即位後、司徒・司空・左右僕射など要職に漢人・鮮卑人をバランスよく登用し、「学官を建立し、公卿以下の子弟及び二品士門二百人を太学生として選抜」したと記されている。このように、南燕の統治層は決して狭隘ではなく、山東の世族も広く取り込んでいた。
また、慕容徳は青斉の地の資源を活かし、商山に製鉄所を設け、烏常沢(うじょうたく)に塩官を置き、「軍国之用を広め」た(同上)。軍事面でも、北魏が南燕の内乱に乗じて青斉に侵入した際、慕容徳は済北でこれを大破している。
さらに、尚書の韓卓(かんたく)が戸籍の隠匿を指摘し、「秦・晋の弊政により、百戸が一戸に合算され、千丁が一籍にまとめられ、課役を逃れている」と上奏すると、慕容徳はこれを採用し、車騎将軍慕容鎮に命じて辺境を厳重に警備させつつ、韓卓を行台尚書として郡県を巡回させ、隠戸五万八千戸を把握した(『晋書・慕容徳載記』)。これは南燕の人的資源を大幅に拡充する成果であった。
教育面でも、慕容徳は「諸生を大いに集め、自ら策試に臨み」、人材登用に努めた。また、泰山の賊・王始を討ち取り、国内の秩序を維持した。王始は処刑直前、「崩即崩矣、終不改帝号」と叫び、その気骨は慕容徳にも苦笑を誘ったという(同上)。
慕容徳はまた、大規模な閲兵を行って国威を示した。『晋書』には「歩兵三十七万、車一万七千乗、鉄騎五万三千」とあるが、これは明らかに誇張されている。しかし、その後の慕容超時代の実戦兵力(臨朐の戦いでは歩騎五万)や、慕容徳が実際に動員した兵力(歩卒二万、騎五千)から逆算すると、南燕の常備兵力は歩兵三万七千、騎兵五千三百、戦車千三百程度と推定される。極限動員すれば九万程度、そのうち甲騎具装が万余騎に達した可能性もある。
「咸以桓玄新得志、未可図、乃止。於是、城西に於いて講武す。歩兵三十七万、車一万七千乗、鉄騎五万三千、山沢に亘り、旌旗弥漫、鉦鼓の声、天地を震す」
(『晋書・慕容徳載記』)
一方、劉裕が義熙初年に動員できた兵力は、四万余人であり、その大半は歩兵であった。『宋書・硃齢石伝』によれば、蜀征伐の際も、劉裕は「大軍の半ば」を割いて二万人を派遣している。これは、当時の東晋の兵力が極めて限られていたことを示している。
さらに、劉裕が南燕征伐の前年(義熙元年)、彭城以北は北魏の侵攻で荒廃しており、「自彭城以南、民皆保聚、山陽・淮陰諸戍、並びに復立せず」(『宋書・長沙景王道怜伝』)とあるように、戦略的基盤は極めて脆弱だった。加えて、盧循(広州)、譙蜀(四川)、慕容超(南燕)が三方から圧力をかけており、劉裕の戦略環境は極めて悪かった。
「是の時、慕容超は斉に僭号し、兵は徐・兗に連なり、歳を経て寇抄し、淮・泗に至る。姚興・譙縦は秦・蜀に僭号し、盧循及び魏は南北より交侵す」
(『晋書・天文志』)
慕容超は劉裕との戦い以前、東晋軍に対して二度の大勝利を収めていた。宿豫を陥落させ、陽平太守劉千載・済陰太守徐阮を捕虜とし、さらに済南を襲って太守趙元を捕らえ、男女千余人を略奪している(『晋書・慕容超載記』)。この成功体験が、彼の過信を生んだ。
劉裕が青斉に侵入した際、慕容超は「京都殷盛、戸口多く、一時に城守すべからず。青苗布野、卒に芟(かり)うるにあらず」として、堅壁清野を拒否し、平原での決戦を選んだ。彼の戦略は、主戦場・兵力・騎兵の三重優位を活かして、劉裕の歩兵主体の軍を殲滅することにあった。
「今、五州の強を据え、山河の固さを帯び、戦車万乗、鉄馬万群あり。縦令(たとえ)岘を過ぎ、平地に至らんと雖も、徐に精騎を以て践(ふ)み、此れ成擒なり」
(『晋書・慕容超載記』)
これは明らかに、桓温が前燕に敗れた枋頭の戦い(369年)を意識した戦略だった。桓温も当初は連勝を重ねたが、慕容垂が主戦場と騎兵の優位を活かして逆転勝利を収めている。
「温、枋頭に次ぐ。慕容垂曰く、『臣、これを撃つ』と。垂を南討大都督とし、慕容徳を征南将軍として五万を率い、苻堅にも援軍を請う。徳は石門に屯して温の糧道を絶つ。温、糧運絶たれ、舟を焼いて退く。垂、襄邑東に伏して前後より挟撃し、王師大敗、死者三万余人」
(『晋書・慕容暐載記』)
しかし、慕容超には慕容垂ほどの戦術的才覚はなく、劉裕は桓温よりも遥かに優れた将帥だった。劉裕は「我一たび岘に入らば、則ち人退く心なし。必死の衆を駆って、懐貳(ふたごころ)の虜に向かう。何をか克たざらんや!」と宣言し、士気を鼓舞した(『宋書・武帝紀』)。
結果、劉裕は臨朐で慕容超を破り、さらに八ヶ月かけて広固城を陥落させ、南燕を完全に滅ぼした。この長期戦が、後に盧循が建康に迫る危機を招いた。
(2)西燕
一方、西燕の慕容永はその実力が過大評価されている。実際、東晋の将軍・朱序が太行山でこれを大破し、上党まで追撃している。後方で翟遼が騒擾を起こしたため撤退したが、朱序はその後も翟遼を石門・懐県で連敗させている(『晋書・朱序伝』)。
「朱序、慕容永を太行で破る」
(『晋書・孝武紀』)
慕容垂が西燕を滅ぼしたのは確かに名将ぶりを示す戦いだったが、西燕の国力は極めて弱小だった。戸数は七万六千八百戸にすぎず、南燕が隠戸だけで五万八千戸を把握していたことと比べると、その差は歴然である(『晋書・慕容垂載記』『慕容徳載記』)。
慕容垂は晋陽攻撃に歩騎七万を動員し、慕容永の主力五万を壺関で挟撃して大破した。これは兵力・戦術の両面で圧倒的な優位に基づく勝利だった。
二、盧循勢力と翟魏
(1)盧循勢力
盧循は范陽盧氏の出で、孫恩の妹婿。孫恩の残党を率いて広州を占拠した。当初、東晋は桓玄討伐に忙殺されていたため、盧循を広州刺史として事実上承認せざるを得なかった(『晋書・盧循伝』)。
劉裕が南燕征伐中に、徐道覆は「劉公が平斉(南燕平定)を果たせば、必ず汝を討つ。今こそ建康を襲うべきだ」と説得し、盧循はこれを容れた。徐道覆は事前に南康山で船材を買い占め、「旬日で艦隊を完成」させ、豫章・南康・廬陵を次々と陥落させた(『資治通鑑・晋紀三十七』)。
盧循・徐道覆連合軍は「戎卒十万、舳艫千計」(『晋書・盧循伝』)と記され、何無忌・劉毅を相次いで破った。特に劉毅は桑落洲で全軍潰滅し、僅かに身を免れるのみだった(『晋書・劉毅伝』)。
この敗北により、建康は大恐慌に陥り、尚書左僕射の孟昶は「臣の罪なり」と自殺した(『宋書・武帝紀』)。当時、建康の守備兵は数千人にすぎず、劉裕は「我、死を以て社稷を衛らん」と決意し、これを拒否した。
「今、兵士雖も少なし、自ら足りて一戦す。若し克ちて済べば、則ち臣主同休。苟も厄運必ず至らんと雖も、我、死を以て社稷を衛らん」
(『宋書・武帝紀』)
劉裕は帰還後、巧みな防衛戦で盧循を撃退し、その後、追撃戦でこれを完全に殲滅した。これは絶体絶命の逆境からの大逆転劇であり、劉裕の軍事的才能を如実に示している。
(2)翟魏
翟魏は「攪屎棍(かくしかん)」——つまり、大勢力の間を巧みに泳ぐ小勢力だった。翟遼・翟釗父子は、朱序・劉牢之に度々敗れている(『晋書・孝武紀』『劉牢之伝』)。
慕容垂が翟釗を滅ぼしたのは見事な戦術だったが、翟魏の支配戸数は三万八千戸にすぎず(『晋書・慕容垂載記』)、南燕の隠戸数にも及ばない弱小政権だった。
三、名将の代表戦:却月陣 vs 枋頭の戦い
(1)畔城・越騎城の戦い(却月陣)
劉裕は北魏十万余の軍勢を相手に、却月陣という車・弩・短槊を組み合わせた奇策で大勝した。『魏書』も「魏師敗績」「師人多傷」と敗北を認めている(『魏書・崔浩伝』『天象志』)。
「超石、槊を断ちて三四尺とし、槌(つち)を以て之を打つ。一槊、輒(すなわ)ち三四の虜を貫く。虜衆、これに当たらず、一時に奔潰す」
(『宋書・朱超石伝』)
この勝利により、北魏の劉裕・後秦征伐への干渉を阻止した。
(2)枋頭の戦い
慕容垂の枋頭の戦いは名高いが、前秦の苻堅が二万の援軍を出し、慕容徳が糧道を断つなど、連携作戦の成果でもあった。単独の将帥としての能力とは別に、外部支援の存在は無視できない。
結論:劉裕は明らかに過小評価されている
劉裕と慕容垂は、全く異なるタイプの将軍だった。
- 慕容垂は主戦場・兵力優位・騎兵主体の有利な状況で戦い、西燕・翟魏といった弱小政権を討った。
- 一方、劉裕は客地・兵力劣勢・逆境の中で、南燕・盧循・北魏・後秦といった強力な敵を次々と破った。
さらに、劉裕の作戦範囲は北は河洛・関中、南は広州・交州に及び、歩兵・水軍・車兵・騎兵を自在に使い分けた。慕容垂には水戦の経験すらない。
よって、劉裕の軍事的能力は慕容垂を上回ると評価すべきであり、彼が「過小評価されている」ことは明らかである。