蕭道成はなぜ南朝で最も有能な皇帝と評価されるのか?「却籍」政策とは何か?
実際のところ、蕭道成(斉高帝)は劉裕(宋武帝)に次ぐ南朝随一の開国皇帝であり、蕭衍(梁武帝)や陳覇先(陳武帝)といった後続の君主とは比べものにならないほどの政治手腕を有していた。とりわけ、彼が「検籍」(戸籍の精査・是正)という難題を動乱を引き起こすことなく成し遂げた点において、後の南朝諸帝を遥かに凌駕している。
実際のところ、蕭道成(斉高帝)は劉裕(宋武帝)に次ぐ南朝随一の開国皇帝であり、蕭衍(梁武帝)や陳覇先(陳武帝)といった後続の君主とは比べものにならないほどの政治手腕を有していた。とりわけ、彼が「検籍」(戸籍の精査・是正)という難題を動乱を引き起こすことなく成し遂げた点において、後の南朝諸帝を遥かに凌駕している。
南朝の建国基盤は、北方から南下した士族と流民に支えられていた。前者は政経的支援を、後者は軍事的支援を提供していた。東晋以降、これらの集団を懐柔するために、朝廷は彼らに賦役免除の特権を与えた。士族のみならず、いわゆる「僑民」(北方からの移民)も課税対象外とされたため、結果として税負担はすべて「土著」(南方の在地民)に集中した。さらに士族は人口の隠匿や土地の兼併を繰り返し、朝廷の財政は深刻な打撃を受けた。
この状況に対し、東晋は「土断」(戸籍の再編・整理)という政策を展開した。『晋書』巻八〈孝武帝紀〉には、
「庚戌土断、義熙土断、皆以僑人編戸、隠匿者悉令首実」
と記されており、これは士族が隠匿していた土著民や僑民を「黄籍」(正規の戸籍)に編入し、課税対象としたことを示している。この政策は士族の勢力を抑制し、民生を改善するとともに、朝廷の財政を大幅に回復させた。特に庚戌土断(349年)と義熙土断(413年)は、いずれも顕著な成果を挙げている。
さらに、東晋の謝安は、士族出身でありながら国家全体の利益を優先した稀有な政治家であった。『晋書』巻七十九〈謝安伝〉には、
「安既秉政、損益庶政、抑豪強、課僑田、畝税二斗」
とあり、彼が士族の荘園に対しても「畝税二斗」(1畝あたり2斗の穀物を課税)を課したことが記録されている。この収入をもって財政を整え、民衆の生活を安定させたことから、謝安は「江左の賢相」と称されたのである。
しかし、いかなる制度も長く続くと弊害が生じる。まず土断政策自体が形骸化していった。宋文帝(劉義隆)、孝武帝(劉駿)の時代までは劉裕の遺法を継承し、雍州(襄陽)、徐兖二州(京口・広陵)などの「僑州」に対して土断を実施していたが、廃帝(劉子業)、明帝(劉彧)以降、朝政の混乱に乗じて庶族地主が賄賂を用いて「黄籍」(課税戸籍)から「白籍」(免税戸籍)へと戸籍を変更するケースが急増した。『宋書』巻五十四〈羊玄保伝〉には、
「白籍之弊、由是滋甚、財用日蹙」
とあり、これが朝廷財政をさらに圧迫していたことが窺える。
また、謝安が導入した士族荘園への課税も、彼の死後、司馬道子の政権下で即座に廃止された。劉裕が一時復活させたものの、孝武帝は形式的に再確認したにとどまり、明帝の「大明」年間(457–464)には完全に消滅してしまった。
蕭道成は、この大明年間の混乱を身をもって経験しており、南朝の積弊を熟知していた。しかし、南斉建国当初は江左士族および青徐豪族の支持が不可欠だったため、直接的な増税は不可能だった。そこで彼は、比較的実行しやすい「却籍」(不正な白籍の是正)に着手した。『南斉書』巻三〈高帝紀〉には、
「詔令却籍、偽冒白籍者悉還黄籍、不以刑罰、但以文告」
とあり、彼が刑罰を用いずに文告のみで却籍を推し進めたことが記されている。この温和かつ効果的な政策により、南斉の財政と民生は著しく改善された。
ところが、その子・斉武帝(蕭賾)は過度に急進的な却籍を強行し、『南斉書』巻四〈武帝紀〉に記される「永明却籍」は大規模な反乱を招き、失敗に終わった。この失敗以後、南朝のどの皇帝も再び却籍に手を出さなかった。その結果、南梁末年には宗室・士族・勲貴・僧侶・僑民がすべて免税特権を享受し、負担はすべて一般民衆に押し付けられた。『梁書』巻五十六〈侯景伝〉には、
「百姓苦役、或斷臂自殘、以避征調、人皆厭兵、視從軍如流徙」
とあり、民衆が兵役を恐れて自ら腕を切り落とすほどにまで追い詰められていた状況が記録されている。まさに「人人苦厭、家家思乱」(誰もが苦しみ、どの家も乱れを望む)という状態であり、このような社会では、侯景のわずか700人の兵が大動乱を引き起こすのも当然であった。
南梁の滅亡は、南朝がすでに「薪の上に座す」(火薬庫の上に座っている)状態にあったことを示しており、侯景は単なる「火花」にすぎなかった。南朝の滅亡は自業自得であり、少しも惜しむに値しない。なぜなら、士族に課税せず、戸籍を精査せず、賦役を公平にせず、すべての負担を民衆に押し付け、過酷に搾取したからである。このような政権が滅びないはずがない。
蕭道成の評価が低く見られがちなのは、南斉の国祚が短く、その後の政情が混乱していたためである。しかし、彼個人の政治的資質は極めて高く、南朝随一の実務家であった。一方、蕭衍は名ばかりの「名君」にすぎず、その名声は南梁の文化芸術の隆盛に支えられているにすぎない。実際の統治は南朝の積弊を悪化させたにすぎず、彼の治世に生まれた民衆にとってはまさに不幸中の不幸であった。