蕭道成は本当に功績があったのか?なぜ蕭道成が南斉を建国できたのか?
蕭道成の台頭には、運の要素が極めて大きかった。その功績は決して突出したものではなく、『南斉書』がいかに彼を称揚しようとも、その実態を覆い隠すことはできない。「猪王」は本当に蕭道成を疑っていたのか?『南斉書』巻一〈高帝紀〉には、「蒼梧王(劉昱、俗に「猪王」と呼ばれる)は。
蕭道成の台頭には、運の要素が極めて大きかった。その功績は決して突出したものではなく、『南斉書』がいかに彼を称揚しようとも、その実態を覆い隠すことはできない。
「猪王」は本当に蕭道成を疑っていたのか?
『南斉書』巻一〈高帝紀〉には、「蒼梧王(劉昱、俗に「猪王」と呼ばれる)は、民間に『蕭道成は天子となる』という風説が流布しているのを聞き、彼を疑った」と記されている。
しかし実際には、蒼梧王は蕭道成をどのように扱っていたのだろうか?
彼はまず太子左衛率に任じられ、その後右衛将軍・衛尉を兼ね、さらに侍中を加え、石頭戍軍事を領するという要職を歴任している。
『宋書』〈百官志〉:「衛尉一人。丞二人。宮門屯兵を掌る。秦の官なり。」
これは宮中の警備を司る極めて重要な職である。また、東宮および宮中の禁衛を統括し、石頭城の軍事を領するという役職は、前例を見ても極めて重職であった。その前任者には、檀道済、孝武帝(劉駿)、明帝(劉彧)らが名を連ねている。
このような重用を「不信」と呼ぶのは、あまりに皮肉である。
劉休範の乱における実態
昇明元年(477年)、桂陽王劉休範が乱を起こし、建康に迫った際、『南斉書』は「太祖(蕭道成)を使持節・都督征討諸軍・平南将軍とし、鼓吹一部を加えた」と記す。
しかし、『宋書』〈廃帝紀〉には「平南将軍蕭道成を任命す」としか書かれておらず、使持節や都督の権限については一切言及されていない。
一方、『宋書』〈劉勔伝〉によれば、このとき中領軍の劉勔が「使持節・領軍」として石頭城を鎮守していた。乱の後、蕭道成はその劉勔の後を継いで中領軍に就任する。つまり、蕭道成は劉勔の「生態的ニッチ」をそのまま引き継いだに過ぎない。ここに、彼の「運の良さ」が如実に現れている。
劉勔:真の軍事的支柱
劉勔は、劉宋末期を支えた真の軍事的支柱であった。彼の麾下には、後の南斉開国功臣の多くが含まれていた。
- 呂安国(『南斉書』巻三十に伝あり):泰始二年(466年)、劉勔が寿春で殷琰を征討した際、呂安国は建威将軍として副将を務め、「横塘で杜叔宝軍を破り、賊の糧道を遮断し、運車を焼却して多大な損害を与えた」(『南斉書』呂安国伝)。
- 黄回(『宋書』巻八十八に伝あり):明帝(劉彧)即位直後、「江西の楚人八百を募り、寧朔将軍として劉勔に属し、西征に従った」。
- 陳顕達(『南斉書』巻二十六に伝あり):龐孟虬が弋陽に至った際、「劉勔は呂安国・垣閎・龍驤将軍陳顕達らを遣わしてこれを拒んだ」。
劉勔は、蕭簡・劉誕の平定で頭角を現し、義嘉の難(466年)では劉子勲の江北豫州軍を撃破し、さらに北魏の侵攻をも退けた。まさに劉宋末期の軍界を支える柱石であり、明帝(劉彧)の託孤の重臣でもあった。
ところが、劉休範の乱において、劉勔は右軍将軍王道隆の無謀な命令により戦死する。
『宋書』劉勔伝:「既にして賊衆、朱雀航の南に屯す。右軍王道隆、宿衛を率いて朱雀に向かう。賊の至るを聞き、急信を以て勔を召す。勔至りて、航を閉ざさんと命ず。道隆、これを聴せず、勔に航を渡らせて進戦せしむ。遂に所領を率いて航南に戦い敗れ、陣中に臨んで死す。時年五十七。」
劉勔の死は、劉宋の軍事的中核の崩壊を意味した。同時に、明帝が寵愛した権臣・王道隆もこの乱で命を落とす。
権力の空白と蕭道成の台頭
劉勔・王道隆の死後、朝廷の実力者は袁粲・褚淵・沈攸之・楊運長らに限られた。この中で、褚淵は蕭道成と親密であり、袁粲は褚淵と対立していた。この構図は、その後の政変を決定づける。
南斉建国の功臣たちの「功績簿」を見れば、その実態が明らかである。
- 柳世隆:沈攸之を平定し、貞陽県侯に封ぜられる(『南斉書』巻四十二)。
- 王敬則:袁粲の挙兵を鎮圧し、「食邑三千戸を増す」(『南斉書』巻二十六)。
- 張敬児:沈攸之を斬り、「襄陽県公に進爵、食邑四千戸を増す」(『南斉書』巻二十九)。
これらの功績は、いずれも既存の反乱勢力の鎮圧によるものであり、蕭道成本人の戦功は限定的である。
沈約の評価と歴史の歪曲
『宋書』を著した沈約は、沈攸之と袁粲を次のように非難する。
『宋書』巻七十四:「攸之、隙を窺い西郢に十有余年、命を専らにして威を恣(ほしいまま)にし、君を無きが如し。及び天、宋道を厭い、鼎運将に離(さか)らんとす。代徳の紀を識らず、楽推の数に独り迷う。公休(袁粲)は既にその族を覆い、攸之もまたその身を屠(ほふ)らる。以て釁乱(きんらん)より自ずから終るは、固より異代ながら一如なり。」
「時、斉王(蕭道成)功高くして徳重し、天命有りて帰す。粲は自ら顧托(こたく)の身を以て、二姓に事(つか)うを欲せず、密かに異図ありき。」
これは明らかに、南斉王朝の正当性を強調するための後付けの正当化である。
褚淵:南斉第一の功臣?その評価は?
蒼梧王は蕭道成以上に褚淵を信頼していた。
『南斉書』褚淵伝:「帝(蒼梧王)が藩に在(おわ)す時、淵と夙(つと)に素(もと)より善(よ)し。及び即位して、深く委寄(いい)し、事(こと)ごとく見(み)ゆる。」
しかし、褚淵はその信頼に応えるどころか、劉宋を裏切って蕭道成を擁立する。そのため、当時の世論は彼を厳しく非難した。
『南斉書』褚淵伝:「然れども世、頗(すこぶ)る名節を以て之を誚(そし)り、時に百姓の語り曰く、『哀れなり石頭城、寧(むし)ろ袁粲のために死すとも、彦回(褚淵の字)として生くることなかれ』と。」
さらに、陳顕達は褚淵に対し、「汝が忠臣と自認するなら、死して宋明帝に顔向けできるか?」と痛烈に詰問している。
ある日、褚淵が朝堂に入る際、腰扇で日を遮っていたところ、ある者が嘲って言った。
「これほどの挙動をして、人前に顔を出すのが恥ずかしくないのか?扇で隠したところで何の益がある?」
淵曰く、「寒士(かんし)が無礼なり。」
その者答えて曰く、「袁・劉(袁粲・劉勔)を殺せぬ者、寒士を免れ得るか?」
このような風評を受ける「第一功臣」は、中国史上、他に例を見ないであろう。
結語
蕭道成の成功は、確かに個人の能力もあったが、それ以上に劉勔・王道隆の戦死、褚淵の裏切り、そして沈攸之・袁粲らの敗北といった「運命の好転」に支えられていた。『南斉書』がいかに彼を美化しようとも、古籍の記録が示す歴史的事実は、その神話的叙述を冷静に相対化する。