斉武帝は本当に「賢明な君主」だったのか?なぜ斉武帝の死後、わずか1年で南斉は滅んだのか?
後継者である斉武帝(蕭賾)は、「不行」――即ち、実際には治世に失敗していた――にもかかわらず、その「賢明」なる印象ゆえに、人々は彼の過ちを隠蔽せざるを得なかった。そのため、その責任の一部を前任者(斉高帝)または後任者(明帝)に押し付け、彼の「賢明」なる幻想を維持しようとしたのである。
後継者である斉武帝(蕭賾)は、「不行」――即ち、実際には治世に失敗していた――にもかかわらず、その「賢明」なる印象ゆえに、人々は彼の過ちを隠蔽せざるを得なかった。そのため、その責任の一部を前任者(斉高帝)または後任者(明帝)に押し付け、彼の「賢明」なる幻想を維持しようとしたのである。
『南斉書』巻六〈明帝紀〉に曰く:
「高帝崩後十有餘年、而明帝簒立。明帝非高帝之胤、故高帝之統胤、於茲絶矣。」
斉高帝(蕭道成)崩御後わずか十余年にして、南斉の国祚は明帝(蕭鸞)によって簒奪された。明帝は高帝の血筋にあらず、よって高帝一門の正統は、この時点で事実上断絶したのである。
しかしながら、武帝に対する「賢君」という先入観ゆえに、人々は南斉の滅亡を単純に「高帝の功業が薄弱であったため」と説明し、明帝が容易に簒奪できたのは「忠臣が乏しかったため」だと一厢情願に信じた。武帝自身の過ちが、いかに国運を傾けたかを深く考えようとはしなかった。
だが、十年という歳月は、国家の命運を覆すに十分な長さである。
永明元年の粛清:高帝旧臣の大量処刑
まず、武帝即位直後、高帝に従った一団の将軍たちが次々と粛清された。『南斉書』巻二十六〈垣崇祖伝〉にはこうある:
「永明元年四月九日、崇祖以連謀境外、無君之心、伏誅。」
同年、張敬児もまた処刑された。『南斉書』巻二十七〈張敬児伝〉曰く:
「永明元年、敕朝臣華林八関斎、於坐収敬児。」
高帝は崩御の際、武帝に荀伯玉を殺さぬよう遺命していた。『南斉書』巻三十一〈荀伯玉伝〉:
「此人事我忠、我身後、人必為其作口過、汝勿信也。」
しかし武帝はこれを無視し、永明元年、垣崇祖とともに荀伯玉も処刑した。
謝超宗は姻戚の張敬児の無実を嘆き、丹陽尹李安民にこう語った:
「往年殺韓信、今年殺彭越、尹欲何計?」(『南斉書』巻三十六〈謝超宗伝〉)
この言葉が武帝の耳に入ると、彼は「超宗の罪は大逆に等しく、誅に値す」として逮捕。謝超宗は廷尉に下され、一夜にして白髪となり、越州への流刑の途上、豫章にて自害を命じられた。
「詔曰:『謝超宗令於彼賜自尽、勿傷其形骸。』」
永明元年一年のうちに、高帝の旧臣が次々と粛清されたのである。
人心を失う苛政と奢侈
武帝による青斉豪族(高帝旧将)の粛清は、南斉の国本を揺るがすものであった。しかも武帝は武事を忌避したため、将軍を殺した後も新人を登用せず、永明の治世を通じて王敬則ら高帝時代の旧人を重用し続けた。
王敬則は才幹に乏しく、ただ蕭道成に従った縁故で高位に登ったにすぎない。かつて武帝が太子として「専断用事、頗不如法」(『南斉書』巻四〈武帝紀〉)と非難された際、高帝が廃太子を検討したところ、王敬則が「太子無事被責、人情恐懼」と進言して武帝を救った。このような「風見鶏」が、高帝と武帝の対立では武帝を支えたのなら、明帝の簒奪にも協力するだろう。
さらに、武帝の性格は極めて苛烈であった。却籍の乱を平定した功臣・陳天福が台軍の略奪行為に関与したとして、武帝は即座に処刑した。
「台軍乗勝、百姓頗被抄奪。軍還、上聞之、収軍主前軍将軍陳天福棄市。」(『南斉書』巻四)
陳天福は武帝の寵臣であったが、功をもって罪を贖う機会すら与えられなかった。台軍は皇帝直属の禁軍である。その統制の失敗を、一将の責任に帰すのは明らかに不当である。
また、武帝は恩賞にも極めて吝嗇であった。永明九年、蕭鸞が愛弟を失い重病に陥った際、武帝は「日夜憂懐、備尽寛譬」と慰めながらも、蕭鸞が衛尉の職を辞して私邸で喪に服したいと願い出たのを却下した。
「表求解衛尉、私第展哀、詔不許。」(『南斉書』巻六)
寵臣を犠牲にし、重病の親族にも情けをかけぬ君主に、誰が忠誠を誓うだろうか?
武帝崩御後わずか十余日、すでに「斉氏微弱、已数年矣。爪牙柱石之臣都尽、命之所余、政風流名士耳」(『南斉書』巻四)との評が流れていた。この「微弱数年」の状況こそ、蕭賾が自ら招いた結果なのである。
民衆への苛政と虚飾の仁政
武帝の民衆に対する統治もまた苛酷を極めた。
検籍政策は官吏の私腹を肥やす道具となり、『南斉書』巻四十〈虞玩之伝〉に曰く:
「東堂校籍、置郎令史以掌之。競行姦貨、以新換故。昨日卑細、今日便成士流。凡此姦巧、並出愚下。」
却籍された者たちは冤罪を抱え、訴えが役所に溢れたが、武帝は彼らを悉く遠方へ流刑とした。
「又啓上籍被却者、悉充遠戍、百姓嗟怨、或逃亡避咎。」
武帝本紀には度々租税免除の詔があるが、それは空文に過ぎなかった。
「先是、毎有蠲原之詔、多無事実、督責如故。」(『南斉書』巻四)
一方で、武帝は私的な蓄財に奢侈を極めた。
「世祖嗣位、運藉休平……香柏文檉、花梁繡柱、雕金鏤宝、頗用房帷……後宮萬餘人、宮内不容、太楽・景第・暴室皆満。」(『南斉書』巻四)
明帝即位後、武帝が造営した新林苑を廃し、「以地還百姓」(『南斉書』巻六)とした。これは、武帝が「棄民從欲、理未可安」(民を捨てて私欲に走るは、道理にかなわず)であったことを示している。
武帝没後二年、北魏との戦いが続く中、「国用虚乏」(『南斉書』巻六)と記されるように、国庫は空虚であった。民を搾取しても、国は富まず、ただ武帝個人が富んだのみである。
南斉には忠臣がいなかったのか?
以上のように、斉武帝は実際には極めて劣悪な君主であった。にもかかわらず、彼は「賢明の君」として後世に記憶され、南斉随一の明君とまで称される。では、なぜ彼の死後わずか一年で江山は易姓したのか?
人々は「武帝は賢明だった」という前提に立って、その崩壊を「高帝の功業が薄弱だったため」と説明しようとする。高帝が忠臣を育てられなかったから、明帝が容易に簒奪できたのだと。
だが、南斉は果たして忠臣がいなかったのか?
否。梁武帝(蕭衍)自身が認めた忠義の士は数多い。
袁昂は建康陥落後も抵抗し、梁武帝の手紙にこう返した:
「竭力昏主、未足為忠;家門屠滅、非所謂孝。」(『梁書』巻二十一)
しかし彼は最後まで降伏せず、梁武帝も「天下須共容之、勿以兵威陵辱」と命じた。
馬仙琕は故人を使者として送られても、「大義滅親」と言って斬り、最後まで戦い抜いた。降伏後、梁武帝は「使天下見二義士」と袁昂とともに称えた(『梁書』巻二十五)。
張沖・房僧寄は郢城・魯山で二百日以上も抵抗し、病死するまで戦った。『南斉書』巻四十二〈張沖伝〉:
「臣雖未荷朝廷深恩、実蒙先帝厚澤。蔭其樹者不折其枝、実欲微立塵効。」
彼らは「未達天心、守迷義運」と梁武帝に評されたが、その忠節は後世に称えられた。
さらには、傀儡に過ぎなかった斉和帝にも死節する者がいた。顔見遠は梁の禅譲後、絶食して死した。梁武帝は嘆いて曰く:
「我自応天従人、何預天下士大夫事?而顔見遠乃至於此也。」(『梁書』巻五十三)
造反した蕭遥光にも死を共にした者が多かった。陸閑、崔慰祖、劉沨、司馬端、柳叔夜らは、いずれも「我は始安(遥光)に死を許した」と言って自害または処刑された(『南斉書』巻四十・四十一)。
また、明帝の子・蕭宝夤が逃亡した際、百姓の華文栄らが匿い、山中に隠れさせた。寿春の地には「寿春多其故義、皆受慰唁」とあるように、旧臣の忠義は根強く残っていた(『魏書』巻五十九)。
呂思勉は『中国通史』において、「南斉は效忠者之多なり」と評し、東昏侯(蕭宝巻)すら「不可輔」ではなかったと論じている。
興味深いのは、これらの忠臣の多くが、明帝やその周辺人物と関係が深かった点である。馬仙琕は「随明帝」、袁昂は「明帝為領軍、欽昂風素」、張沖らも「蒙先帝(=明帝)厚澤」とある。
つまり、忠義は必ずしも「功業」に依存しない。明帝に功業などなかったが、人々は彼に忠誠を尽くした。
それゆえに、武帝の死後、旧臣たちは明帝を支持し、武帝の血統を守ろうとする者は一人もいなかった。これは、武帝が人心を失っていた証左にほかならない。
北魏孝文帝の痛烈な批判
北魏の孝文帝は、元々武帝に仕えていた南斉の将軍をこう叱責している:
「卿先事武帝、蒙在左右、不能尽節前主、而尽節今主、此是一罪……武帝之胤悉被誅戮、初無報效、而反為今主尽節、違天害理、此是三罪。」(『魏書』巻六十一)
孝文帝はさらに、「天迷其心、鬼惑其慮;守危邦、固逆主」と述べ、「奉逆君、守迷節、古人所不為」と断じた。
「賢明」と称された武帝に忠節を尽くす者はなく、簒奪者・明帝にこそ忠義の士が集まった。これほどまでに、武帝が人心を失っていたことを示す史料はない。
結論
結論として、南斉の崩壊は斉武帝蕭賾の治世の失敗に起因する。それを「高帝の功業が薄弱だったため」と帰すのは、歴史的事実を歪める極めて荒謬な見解である。