現在位置:首页 > その他の華夏時代

司馬休之とはどんな人物?なぜ劉裕に狙われたのか?

劉裕が他の司馬皇族を粛清したのは、当時の人々にとって「快挙」と受け止められた。しかし、司馬休之を討った件だけは、事情がまったく異なっていた。司馬氏一族は確かに「遺臭万年」(『晋書・宣帝紀』)と評されるほど悪名高いが、その中でも司馬休之が継承した譙王家だけは、「忠」の一字を旗印としてきた。司馬氏の本流は司馬懿・司馬孚の二大系譜であるが。

龍の歩み龍の歩み

劉裕が他の司馬皇族を粛清したのは、当時の人々にとって「快挙」と受け止められた。しかし、司馬休之を討った件だけは、事情がまったく異なっていた。

司馬氏一族は確かに「遺臭万年」(『晋書・宣帝紀』)と評されるほど悪名高いが、その中でも司馬休之が継承した譙王家だけは、「忠」の一字を旗印としてきた。司馬氏の本流は司馬懿・司馬孚の二大系譜であるが、休之の先祖は司馬懿の弟・司馬進にすぎず、傍流に属する。晋の武帝(司馬炎)が司馬進の子・司馬遜に「譙王」の爵位を与えたのは、祖父(司馬懿)の功績を思ってのことであった(『晋書・宗室伝』)。誰が予想しただろうか、百年余りの後、この傍流の譙王家が、司馬氏全体が「臭いもの扱い」される中で、唯一の「遮羞布」となるとは。

譙閔王・司馬承は東晋建国の初期、王敦の乱に際して忠節を尽くし、戦死した(『晋書・譙閔王承伝』)。

譙敬王・司馬恬は、大司馬・桓温の専横に対しても屈せず、当時の士大夫から「清節」と称された(『晋書・譙敬王恬伝』)。

その子・譙忠王・司馬尚之は、孫恩の乱において京師を守り、会稽王・司馬道子父子の信任を一身に集めた(『資治通鑑』巻112)。

こうした忠義の系譜を受け継いだのが、司馬休之である。彼自身は譙王ではなかったが、息子・司馬文思を兄・尚之の養子としたため、事実上の譙王の父として、その地位は極めて尊ばれていた。

しかも休之は、性格もまた非凡だった。まるで『後宮の涙(甄嬛伝)』に登場する敬妃のごとく、平易にして温厚、皇族の威張りを一切見せず、常に謙虚で目立たぬ人物であった。劉裕もその「臆病」ぶりに目をつけ、劉毅を討った後、反乱の温床と恐れられた荊州を安心して彼に任じたほどである。休之が荊州刺史として在任した三年間、政績は優れており、漢水流域の民心を大いに得ていた。

しかし、「匹夫無罪、懐璧其罪」(『春秋左氏伝』)——無実の罪で滅ぼされるのは、ただ「玉(徳望)」を持っているからである。休之に反逆の意思はなかったが、彼は皇族の中でも稀に見る「徳望」を持ち、かつ荊州の実権を握っていた。劉裕が他の反対勢力を次々と「肉体消滅」した後、休之は自然と「眼中の釘」となったのである。

とはいえ、休之にも非はあった。彼は政治的嗅覚に欠け、息子を律することができなかった。司馬文思は毎日のように賓客や遊侠を招き、「戦国四公子」のごとく振る舞おうとした。しかもその性格は凶暴で、無辜を殺し、狩猟に耽り、果ては他人の墳墓を焼くなど、典型的な「膏粱子弟」(『晋書・良吏伝序』)の振る舞いであった。これでは、劉裕が手を下す口実を与えるだけである。

だが、その後の劉裕の行動は、明らかに政治的誤算だった。

休之は愛子の情から、文思を処刑することを拒み、自らその譙王号を返上して命乞いをした。それに対し劉裕は、建康にいた休之の息子・司馬文宝と甥・司馬文祖を即座に処刑し、ただちに荊州討伐の兵を起こした。

この行動は「師出無名」(『漢書・高帝紀』)——大義なき戦いであり、中立を保っていた雍州刺史・魯宗之とその子・魯軌を、反劉裕陣営に追い込む結果となった。

この荊州征伐の戦いぶりは、三年前に劉毅を「無声無臭」に討ったときと比べて、明らかに劣っていた。その結果、劉裕の娘婿が戦死し、北府兵の初戦は敗北に終わった。これは、後秦北伐を目前に控えた劉裕の軍歴において、もっとも「惨勝」に近い戦いだった。もし劉裕という「主心骨」がいなければ、北府兵はすでにその戦力を失い、かつての南燕・盧循討伐時の輝きを完全に失っていたことだろう。

劉裕は、実に「能く戦う」人物だった。むしろ「戦いすぎ」るほどだった。その圧倒的な軍事的才能が、政治的短所を覆い隠していたのである。司馬休之討伐における彼の「食い相(食べ相)の悪さ」は、その政治的未熟さを如実に示している。勝利は収めたものの、その代償として、すでに限られた「政治的信用」をさらに削ることになった。

劉裕と桓温を比較すれば、その「スキルセット」は正反対だった。桓温は「政治>軍事」、劉裕(および慕容垂)は「軍事>政治」——まさに「各有所長」(『後漢書・王充伝』)である。

余談:五度の死線を越えた男

筆者は「因果応報」を半ば懐疑的に見てきたが、司馬休之の人生を読むたび、その「運の良さ」に思わず感嘆せずにはいられない。

休之は生涯を通じて、五度も死の淵を彷徨いながら、すべての危機を奇跡的に乗り越えた。

  • 桓玄が晋を簒奪した際、兄・司馬尚之が司馬元顕の党に属していたため処刑された。休之は敗走後、劉裕の親友・劉敬宣とともに南燕へ亡命し、南燕主・慕容徳の厚遇を受けた(『晋書・司馬休之伝』)。
  • 劉敬宣が慕容徳暗殺を企て失敗。同行者多数が処刑されたが、休之と敬宣のみが脱出して東晋に帰還。
  • 帰国後、再び荊州刺史に任じられるも、桓振の反撃で江陵陥落。即座に建康へ逃げ帰り、命を拾う。
  • 劉裕西征の際、休之父子は魯宗之父子とともに北へ逃れ、後秦の長安へ。姚興より名ばかりの揚州刺史に任じられる(『資治通鑑』巻117)。
  • 姚興死後、後秦が劉裕に滅ぼされる直前、休之は北魏への使節として派遣され、途中で後秦滅亡を免れ、北魏にて善終。死後、「征西大将軍・右光禄大夫」を追贈(『魏書・外戚伝』)。

五度の追撃、五度の脱出。東晋でも、南燕でも、後秦でも、北魏でも——どこに行っても人望厚く、誰からも慕われた。この「大福大報」は、戦乱の世において、まさに羨望の的であった。


トップに戻る