劉宋は領土が広かったのに、なぜ北魏に勝てなかったのか?
まず一つ明確にしておくべきことがある。領土が広いからといって国力が強いとは限らない。人口が多くても、それが必ずしも国力の強さを意味するわけではない。真に強いとは、あらゆる資源を統合し、効率的に活用できる能力を指すのである。劉宋の文帝(劉義隆)は、元嘉九年(432年)、次のような詔を発している。
まず一つ明確にしておくべきことがある。領土が広いからといって国力が強いとは限らない。人口が多くても、それが必ずしも国力の強さを意味するわけではない。真に強いとは、あらゆる資源を統合し、効率的に活用できる能力を指すのである。
劉宋の文帝(劉義隆)は、元嘉九年(432年)、次のような詔を発している。
「益・梁・交・広、境域幽遐(ゆうか)、治宜物情、或多偏擁。可更遣大使、巡求民瘼(みんばく)。」
(『宋書』巻五〈文帝紀〉)
これは、益州・梁州・交州・広州の四州は辺境にあり、中央の政令が行き届きにくく、地方の実情に即した統治が困難であるため、中央から特使を派遣し、民衆の苦しみを調査せよ、という趣旨である。
交州は林邑(りんゆう)に接し、梁州は仇池(きゅうち)に隣接しており、前者は西南夷(せいなんい)、後者は西北の羌・胡(きょうこ)と接する要衝であった。
また、荊州北部、すなわち雍州(ようしゅう)地域(現在の湖北省北部・河南省南部)には、蛮族が居住していた。江南側には「五谿蛮(ごけいばん)」がおり、江北側の諸蛮は山中に住んでおり、ここでは便宜上「雍州蛮」と呼ぶことにする。
文帝の一族に劉道産(りゅう どうさん)という人物がいた。彼は蛮族との交渉に長けており、梁州刺史として赴任した際には、
「在州有恵化(けいげ)、関中流民、前後出漢川帰之者甚多(しんた)。」
(『宋書』巻六十五〈劉道産伝〉)
と記録されているように、多くの関中からの流民が漢川(かんせん)を越えて彼のもとに帰順した。
その後、雍州刺史に転任すると、雍州蛮を巧みに懐柔し、山中から平地へと誘導して統治下に組み入れた。しかし、彼の死後、後任の刺史がその政策を継げず、蛮族は再び反乱を起こした。
「先是、雍州刺史劉道産善撫諸蛮、前後不附者、皆引出平土、多縁沔(めん)為居。及道産亡、蛮又反叛。」
(『宋書』巻九十七〈夷蛮伝〉)
「蛮族など、簡単に制圧できるだろう」と考える向きもあるが、それは甘すぎる。
建平蛮の首領・向光侯(こう こうこう)は、巴東・建平・宜都・天門の四郡を蹂躙し、住民は散逸し、「百不存一(ひゃくふぞんいち)」——百人に一人も残らぬほどにまで荒廃させ、荊州全体を疲弊させた。これは決して軽視できる事態ではない。
「孝武大明中、建平蛮向光侯寇暴峡川、巴東太守王済・荊州刺史朱脩之(しゅ しゅうし)遣軍討之。光侯走清江、清江去巴東千餘里。時巴東・建平・宜都・天門四郡蛮為寇、諸郡人戸流散、百不存一。明帝・順帝世尤甚、荊州為之虚弊云。」
(『宋書』巻九十七〈夷蛮伝〉)
西の梁州でも、統治がうまくいかず、仇池の楊難当(よう なんだん)が南城を攻め落とし、刺史の甄法護(しん ほうご)は狼狽して逃走した。
南の交州では、林邑王・范陽邁(はん ようまい)が絶えず侵寇を繰り返していた。
「元嘉初、陽邁侵暴日南・九徳諸郡、交州刺史杜弘文建牙欲討之、聞有代乃止。八年、又寇九徳郡、入四会浦口。交州刺史阮弥之(えん びし)遣隊主相道生(そう どうせい)帥兵赴討、攻区栗城不克、乃引還。十二年・十五年・十六年・十八年、毎遣使貢献、献亦陋薄、而寇盗不已。」
(『宋書』巻九十七〈林邑国伝〉)
このように、劉宋が実効的に統治・資源化できたのは、荊州・江州・揚州・徐州・豫州・青州の六州に限られていた。
これにより、劉宋が実際に動員可能な資源は、北魏——初期の北魏ですら——に及ばなかったことが明らかとなる。
河北は、狭い地域に膨大な人口を抱える「奇跡の地」であった。領土が狭いゆえに、人口の統合・動員が極めて迅速かつ効率的に行われた。
第一次元嘉北伐の際、北魏の太武帝・拓跋燾(たくばつ とう)はただ一通の詔を発しただけで、三州の兵が瞬く間に黄河沿岸に集結した。
「帝聞劉義隆将寇辺、乃詔冀・定・相三州造船三千艘、簡幽州以南戍兵集於河上以備之。」
(『資治通鑑』巻一二一)
最短距離で最大の兵力を動員できる——それが河北の圧倒的な地政学的優位であった。
ゆえに、劉裕(りゅう う)があまりにも「バグ」のような存在だったため、後世の人々は誤解してしまったのである。「南方政権の資源は北方と対等である」と。
例を挙げよう。義熙七年(411年)、劉裕が南燕を討った際、「領土差で圧勝しただけの“虐菜”(なぐりごろし)」と軽く見る向きがある。確かに、東晋の領土は南燕より遥かに広かった。だが、先に述べた通り、「領土が広い=人口が多い=資源を効率的に使える」とは限らない。
当時、益州は譙縦(しょう じゅう)の手にあり、荊州刺史・劉道規(りゅう どうき)はその防備に専念していた。広州は盧循(ろ じゅん)が占拠しており、江州刺史・何無忌(か むき)はその牽制に追われていた。三呉(さんご)地域は戦乱で荒廃し、「戸口百不存一」の状態であり、劉裕は臧熹(ぞう き)を派遣して復興にあたらせている。
豫州刺史・劉毅(りゅう い)は、北伐に加わらず京師防衛に留まった(あるいは劉裕がそう命じたともいえる)。その豫州軍は、後に盧循との戦いで壊滅した。
結局、劉裕が実際に動員できたのは、揚州と徐州の二州の兵力のみであった。
この二州の資源で、青州を攻めたのである。しかも、それ以前、南燕の慕容超(ぼくよう ちょう)は徐州守備軍を「まるで子を打つが如く」蹂躙していた。
なぜ「簡単に勝てた」と思えるのか?
慕容超は、万騎を超える鮮卑の精鋭騎兵を擁し、内線作戦という地の利もあった。臨朐(りんく)での決戦では、劉裕軍と一日中激戦を繰り広げ、奇策によって敗れたにせよ、南燕軍の戦闘力は決して低くなかった。
劉裕が車陣(しゃちん)を駆使して鮮卑騎兵に「筋肉記憶」を植えつけたからといって、他の将軍が同じ戦術で北魏を圧倒できるとは限らないのである。
劉裕は、後継者に良好な外交環境を残した。少帝・劉義符(りゅう ぎふ)の時代こそ、劉宋にとって最大の機会だった。
しかし劉義符は「四肢発達、頭脳単純」、その政権を支えた徐羨之(じょ せんし)も「四肢単純、頭脳単純」——二人とも機を見るに敏ではなく、好機を逸してしまった。
文帝・劉義隆は、その後、長年にわたり内部の安定化に奔走せざるを得ず、その間に北方の情勢はすでに固まっていた。
父・劉裕があまりに傑出していたため、劉義隆は「自分も封狼居胥(ほうろうきょ)を成し遂げられる」と錯覚してしまった。その結果、彼が心血を注いで築き上げた「元嘉の治」は、北伐の失敗とともに崩壊したのである。