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韓陵の戦いは本当に沙苑の戦いより優れているのか?高歓の兵力は3万だった?

信じがたいことではあるが、破六韓抜陵の乱以降、北朝において最も精彩を極めた戦例は、実は高歓(こうかん)が指揮した韓陵の戦いである。その戦闘の巧緻さと臨機応変な指揮は、沙苑の戦いをも上回ると言える。まず、韓陵の戦いにおける高歓軍の兵力について、『北斉書・神武帝紀』に「馬二千、歩卒三万」と記されているが。

龍の歩み龍の歩み

信じがたいことではあるが、破六韓抜陵の乱以降、北朝において最も精彩を極めた戦例は、実は高歓(こうかん)が指揮した韓陵の戦いである。その戦闘の巧緻さと臨機応変な指揮は、沙苑の戦いをも上回ると言える。

高歓軍の実際の兵力

まず、韓陵の戦いにおける高歓軍の兵力について、『北斉書・神武帝紀』に「馬二千、歩卒三万」と記されているが、これはあくまで高歓直属の中軍の規模にすぎない。実際の兵力は、これを遥かに上回っていた。

その背景を理解するには、孝荘帝(元子攸)崩御後の情勢を遡る必要がある。当時、晋州刺史であった高歓は、山胡(せんこ)討伐の最前線にあり、これを機に自らの勢力を着々と築き上げていた。すでにこの段階で、後の北斉を支える多くの柱石となる人物が高歓のもとに集結していた。

『北斉書・神武帝紀』:「乃以神武為晋州刺史。於是大聚斂,因劉貴貨栄下要人,尽得其意。」

『北斉書・竇泰伝』:「神武之為晋州,請泰為鎮城都督,参謀軍事。」

『北斉書・韓軌伝』:「神武鎮晋州,引為鎮城都督。」

『北斉書・潘楽伝』:「斉神武出牧晋州,引楽為鎮城都将。」

『北斉書・蔡俊伝』:「高祖之牧晋州,引為兼治中従事史,行義寧郡事。」

爾朱兆との関係と兵力拡大

さらに、爾朱兆(じしゅ ちょう)は勇猛ながら謀略に欠け、紇豆陵歩藩(かつとりょう ほはん)に度々敗北していた。窮地に陥った爾朱兆は、高歓(晋州刺史)の援軍を要請せざるを得なかった。

『北斉書・慕容紹宗伝』:「紇豆陵歩藩逼晋陽,爾朱兆撃之,累為歩藩所破,欲以晋州徴高祖共図歩藩。紹宗諫曰:『今天下擾擾,人懐覬覦。正智士用策之秋。高晋州才雄気猛,英略蓋世、譬諸蛟龍、安可借以雲雨!』兆怒曰:『我与晋州推誠相待、何忽輒相猜阻、横生此言!』便禁止紹宗、数日方釈。遂割鮮卑隷高祖。高祖共討歩藩、滅之。」

この戦いの後、高歓は爾朱兆を欺いて葛栄(かつえい)の残党を自らの指揮下に置くことに成功する。

『北斉書・高市貴伝』:「紇豆陵歩藩之侵乱并州也、高祖破之、市貴亦従行有功……高祖挙義、市貴預其謀。」

信都での勢力拡大と豪族の支持

このように、高歓は晋州における私兵集団(晋州小団体)に加え、爾朱兆から割譲された鮮卑兵(高市貴ら)、さらに葛栄残党を掌握していた。その後、滏口(ふこう)を越えて信都(しんと)に至ると、高乾・高昂兄弟をはじめ、趙郡李氏、渤海封氏、范陽盧氏といった河北豪族が次々と高歓に帰順する。

『北斉書・高乾伝』:「乾既宿有報復之心、而白鷂忽至、知将見図、乃先機定策、潜勒壮士、襲据州城、伝檄州郡、殺白鷂、執刺史元仲宗。推封隆之権行州事、為荘帝挙哀、三軍縞素。乾昇壇誓衆、辞気激揚、涕涙交下、将士莫不哀憤。」

『北斉書・李元忠伝附李愍』:「未之郡、洛京傾覆、愍率所部西保石門山。潜与幽州刺史劉霊助及高昂兄弟、安州刺史盧曹等同契義挙。助敗、愍遂入石門。高祖建義、以書招愍、愍奉書、擁衆数千人以赴高祖、高祖親迎之。」

『北斉書・盧文偉伝』:「文偉棄州、走還本郡、仍与高乾邕兄弟共相影響。属高祖至信都、文偉遣子懐道奉啓陳誠、高祖嘉納之。」

このように、高歓は信都到着時すでに一大軍事勢力となっていた。そのため、爾朱氏内部の権力闘争においても、高歓は双方から引き立てられる存在となっていた。

『北斉書・神武帝紀』:「是月、爾朱度律廃元曄而立節閔帝、欲羈縻神武。三月、乃白節閔帝、封神武為渤海王、徴使入覲。神武辞。」

韓陵の戦いにおける戦術的優位性

以上より、韓陵の戦いにおける高歓軍は、中軍(3万)に加え、左軍(高敖曹)、右軍(高岳)を擁しており、決して兵力的に劣勢ではなかった。むしろ、『北史・賀抜勝伝』に「斉神武既克相州、兵威漸盛」とあるように、すでに爾朱氏に対抗し得る規模に達していた。

実戦においても、左軍・右軍はいずれも崩れることなく、中軍が一時的に不利な状況に陥った際、高岳・高敖曹が即座に精鋭騎兵を率いて中軍を救援した。

『北斉書・高乾伝附高敖曹』:「及戦、高祖不利、軍小却、兆等方乗之。高岳、韓匈奴等以五百騎衝其前、斛律敦収散卒躡其後、昂与蔡俊以千騎自栗園出、横撃兆軍。兆衆由是大敗。是日微昂等、高祖幾殆。」

『北斉書・清河王岳伝』:「高祖与四胡戦於韓陵、高祖将中軍、高昂将左軍、岳将右軍。中軍敗績、賊乗之、岳挙麾大呼、横衝賊陣、高祖方得回師、表裏奮撃、因大破賊。」

特に注目すべきは、戦場で一度崩れた歩兵を斛律金(こりつきん)が迅速に再編成し、高岳と連携して爾朱兆を挟撃した点である。通信手段の限られた古代において、20万規模の戦場で左右両軍が即応的に連携し、敵の「斬首作戦」を逆に包囲殲滅するという戦術的俊敏さは、沙苑の戦い(事前に準備された伏兵による奇襲)よりも遥かに高度である。

爾朱度律の「不介入」は裏切りか?

なお、『北史・賀抜勝伝』には「度律悪兆之驍悍、惧其陵己、勒兵不進」とあり、爾朱度律が爾朱兆を見捨てたとされるが、これは賀抜勝が自らの裏切りを正当化するための「責任転嫁」の可能性が高い。実際、爾朱兆の騎兵が深く敵中に突入した状態で、度律が援軍を送れば、左右軍の横撃により逆に全軍が崩壊する危険があった。したがって、度律の不介入は「無力」ゆえの判断であり、裏切りとは異なる。

『北史・賀抜勝伝』:「兆率鉄騎陷陣、出斉神武後、将乗其背而撃之。度律悪兆之驍悍、惧其陵己、勒兵不進。勝以其携貳、遂以麾下降斉神武。度律軍以此先退、遂大敗。」

結論:韓陵の戦いの歴史的価値

結論として、韓陵の戦いは、指揮官の臨機応変さ、部将間の連携、敗勢からの即時反撃という点で、北朝戦史において極めて稀有な戦例である。沙苑の戦いもまた巧妙ではあるが、「仕掛け済みの罠」に敵を誘い込む戦術であり、韓陵のような「動的戦場における即応的連携」には及ばない。

余談ではあるが、他の戦例(例えば酒に酔って指揮を執る将軍や、丁公・劉邦の逸話、殷孝祖の奇行など)は、あまりに奇矯で、韓陵・沙苑のような戦術的傑作とは同列に語るべきではない。むしろ、これら二つの戦いはそれぞれ独立して評価されるべきであり、無理に並べて比較すると、かえってその卓越性が霞んでしまうであろう。


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