陳蒨はなぜ「南北朝で最も完璧な皇帝」と呼ばれるのか?南朝陳の陳文帝・陳蒨は本当に李世民に匹敵するのか?
南北朝時代において、最も完璧な皇帝と評される人物は二人いる。一人は北魏の孝文帝・拓跋宏(元宏)であり、もう一人は南朝陳の文帝・陳蒨(ちん せん)である。彼は実質的に南朝陳を創始した君主であり、その業績は「低配版の唐文帝(李世民)」と称しても過言ではない。もし陳蒨がいなければ、南朝陳は侯景(こうけい)が樹立した「漢」(侯漢)のように短命に終わり。
南北朝時代において、最も完璧な皇帝と評される人物は二人いる。一人は北魏の孝文帝・拓跋宏(元宏)であり、もう一人は南朝陳の文帝・陳蒨(ちん せん)である。彼は実質的に南朝陳を創始した君主であり、その業績は「低配版の唐文帝(李世民)」と称しても過言ではない。
もし陳蒨がいなければ、南朝陳は侯景(こうけい)が樹立した「漢」(侯漢)のように短命に終わり、陳霸先(ちん はせん)も侯景と並んで『梁書』や『南史』に「侯陳合伝」として記され、「侯景之乱」は「侯陳之乱」と呼ばれていただろう。南朝陳は桓玄の「桓楚」(かんそ)にすら及ばぬ偽政権として、その正統性すら疑われたに違いない。
武功——六年半で七州を統一
陳蒨が即位した際、南朝陳の実効支配地域は蘇南・皖南・浙北の一角にすぎず、内には豪族の割拠、外には北斉・北周・梁の残党が虎視眈々と南朝を狙っていた。しかし、『陳書』巻三〈世祖本紀〉にはこう記されている:
「世祖(陳蒨)以六年半之間、江表七州を悉く平定し、南土の半ばをほぼ統一す。」
——『陳書』巻三〈世祖本紀〉
わずか六年半の間に、彼は七州を平定し、長江以南のほぼ全域を掌握した。これは実に驚異的な武功である。
文治——天嘉之治の実現
侯景の乱は三呉(さんご:蘇州・湖州・常州一帯)を徹底的に破壊し、「千里無煙、白骨蔽野」(『南史』巻八十〈賊臣伝〉)とまで形容される惨状をもたらした。この荒廃した江南を、陳蒨は「励精為治、務在養民」(『陳書』巻三)の精神で再建した。
彼は農業の復興を最優先とし、租税を軽減し、吏治を整え、民の休養を図った。その結果、江南の経済は急速に回復し、史書はこの治世を「天嘉之治」と称えた。『資治通鑑』巻一六八にはこうある:
「天嘉の世、戸口増殖し、田野に穀多し。百姓安堵して、歌舞昇平の風あり。」
——『資治通鑑』巻一六八
人徳——殺さざるを得ざる決断
陳蒨の人徳については、堂弟・陳昌(ちん しょう)を溺死させた一件を除けば、ほとんど瑕疵がない。しかし、この行為も「無奈何の措置」であった。陳昌は北周に人質として送られていたが、帰国後に傲慢な態度をとり、『陳書』巻二十一にはこう記される:
「昌書を世祖に上り、『汝は僭位なり。速やかに退け』と曰う。」
——『陳書』巻二十一
この挑戦的かつ反逆的な言辞に対し、陳蒨が黙認すれば、自らの命が危うかった。『南史』はこれを「昌の自取なり」と評しており、陳蒨の決断はむしろ政権安定のためのやむを得ざる措置であった。
また、功臣・侯安都(こう あんと)が驕慢を極め、ついには御座(玉座)に座って賓客を宴するという不敬を働いた際も、陳蒨は彼を処刑した後、厚葬を施し、その子を侯爵に継がせた。『陳書』巻八〈侯安都伝〉には:
「安都死すれども、贈官・葬儀を厚くし、其の子を嗣がしむ。」
——『陳書』巻八〈侯安都伝〉
この寛容さこそ、陳蒨の器量の大きさを示すものである。
李世民との比較——「六辺形戦士」の共通点
陳蒨は、ある意味で「低配版の李世民」とも言える。両者とも:
- 諡号は「文帝」
- 王朝の第二代皇帝
- 実質的な建国者
- 兄弟(または親族)を殺害せざるを得なかった
- 文治・武功・人徳のいずれも卓越(「六辺形戦士」)
- 治世を創出(貞観之治 vs 天嘉之治)
中国史上、「文」の諡号を持つ皇帝は総じて評価が高く、その中でも李世民・陳蒨・拓跋宏の三人は、ほぼ瑕疵なく完璧に近い存在である。
他方、朱棣(永楽帝)、宇文泰、皇太極、オゴデイ(窩闊台)、耶律徳光らは民衆への虐殺が甚だしく、劉恒(漢文帝)、劉義隆(宋文帝)は仁政を敷いたものの武功に欠け、楊堅(隋文帝)は民を搾取し、人徳に疑義がある。
ゆえに、両晋南北朝四百年の乱世において、文治・武功・人徳の三拍子が揃い、かつ重大な汚点のない皇帝は、拓跋宏と陳蒨の二人のみと断じて差し支えないであろう。