中国歴史制度違い 唐 漢 宋 明 古典文献 で比較 すると どうなる?
例えば唐代は、国際史学界において「律令時代」と称されます。なぜなら、唐代の国家体制は「律令制」を中心に設計されていたからです。『唐律疏議』にはこうあります:「律以正刑定罪、令以設範立制、格以補遺拾闕、式以軌物程事。」(律は刑罰と罪を定め、令は規範と制度を設け、格は欠落を補い、式は事物を規範化する。)
例えば唐代は、国際史学界において「律令時代」と称されます。なぜなら、唐代の国家体制は「律令制」を中心に設計されていたからです。
『唐律疏議』にはこうあります:
「律以正刑定罪、令以設範立制、格以補遺拾闕、式以軌物程事。」
(律は刑罰と罪を定め、令は規範と制度を設け、格は欠落を補い、式は事物を規範化する。)
すなわち:
- 律:国家の基本刑法。
- 令:行政運営に関する法規。
- 格:律・令の補充・修正条項。
- 式:律・令の実施手順を定めた細則。
唐代の国家運営は、上は皇帝と宰相の議政から、下は地方官吏の裁判・行政執行に至るまで、すべてこの律令条文に基づいて行われました。
例えば財産相続の裁判では、律令の条文に従って各相続人の「分授の比重」が厳密に計算されました。
また、唐代には「八議」という減刑制度がありました。これは、特定の身分や功績を持つ者に対して、罪を軽減するための特別な法的プロセスです。
『唐律疏議·名例律』に曰く:
「八議者、議親、議故、議賢、議能、議功、議貴、議勤、議賓也。」
(八議とは、親族・旧臣・賢者・有能者・功臣・高官・勤労者・賓客を議するものなり。)
この制度では、司法機関が「八議」該当者を皇帝に上奏し、皇帝が召集する特別会議で減刑の可否を審議しました。ただし、「十悪」に該当する重罪(謀反・大逆など)は、いかなる場合も減刑の対象外でした。
皇帝といえども、法律の枠内でしか裁量を行使できず、もし減刑を望むなら、裁判段階で「十悪」に該当しない罪名を適用させる必要がありました。
ただし、唐代には「禁衛軍法」という非常時法も存在しました。法律を無視して武力で政権を転覆させる——いわゆる「テーブルをひっくり返す」行為——は、また別の「力の論理」が支配する世界でした。
漢代:議事と判例が支配する時代
それでは漢代はどうだったでしょうか?
漢代は「議事以制」の時代——すなわち、国家の制度や方針が「議事会議」の結果によって形成される体制でした。
『漢書·刑法志』にはこう記されています:
「律令凡九百六十卷、科條無慮萬餘。」
(律令は凡そ九百六十巻、科条はおよそ万余。)
漢代の法律体系は「律・令・科・比」の四要素から成り立っていました:
- 律:基本法典。
- 令:律の補充・解釈、臨時法。
- 科:単行法。
- 比:判例法。その中でも「決事比」(判決例)と「辞訟比」(訴訟例)に分かれる。
特に「比」は重要で、過去の判決が皇帝の承認を得て法的効力を帯び、後の裁判の基準となりました。これは現代の「コモン・ロー(判例法)」に類似する性格を持ちます。
また、重大事件や疑獄については、「廷議」や「雑議」といった議事会議が召集され、時には民間の「賢良」や「孝廉」が陪席して意見を述べました。
『後漢書·百官志』には:
「疑獄則廷尉奏讞、公卿雜議之。」
(疑わしき獄事は廷尉が奏上し、公卿が集まって議する。)
これは、現代の「陪審員制度」の原型と見ることもできます。実は、このような制度は周代にはすでに制度化されていました。
『周礼·秋官·小司寇』:
「以五刑聽萬民之獄訟……以三刺斷庶民獄訟之中。」
(五刑を以て万民の獄訟を聞き……三刺(三度の民意確認)を以て庶民の獄訟を裁く。)
つまり、中国は紀元前から「民意を裁判に反映する」仕組みを持っていたのです。
西漢と東漢:まるで異なる二つの世界
同じ漢代でも、西漢と東漢はまるで異なる国家像を呈しています。
西漢期は、国家が直接的に基層社会を統治していました。土地・宅地・生産資材を国家が民に分配し、その見返りとして「兵役義務」を課していました。つまり、西漢は「義務兵制」が主流でした。
しかし東漢になると、地方豪族に統治権が委譲され、軍隊は「募兵制」や「傭兵」が主流となりました。
さらに西漢内部でも、初期・中期・後期で制度は大きく変化しています。
西漢初期は「自由経済」で、貨幣鋳造権さえ民間に委ねられていました。しかし武帝期になると、塩鉄専売や均輸平準といった「国家資本主義政策」が導入され、国有企業や混合所有制企業が広く展開されました。
宋代:寡頭経済と都市文明の花開く時代
「宋代は商業経済が繁栄した」とよく言われますが、その実態は「寡頭経済」の色彩が濃厚でした。
宋代では、各業種に「行会」が形成され、事実上の独占体制を築いていました。国家はこれに対し、「特許営業権(牌)」を発行することで統制を図りました。
『宋史·食貨志』:
「市易務掌市易之事、給牌以授商。」
(市易務は市易の事を掌り、牌を発して商人に与う。)
この結果、巨大資本が形成され、なんと「紙幣(交子・会子)」の発行にまで至りました。
宋代の都市生活は、現代と見まがうほど洗練されていました:
- 夜市・酒楼(ナイトクラブ)
- 露店・雑貨店(スーパー)
- 外食配達(外卖)
- 公共浴場・消防組織・街灯
- 娯楽新聞(小報)
『東京夢華録』(孟元老)にはこうあります:
「夜市直至三更尽、才五更又復開張。如要鬧去處、通曉不絶。」
(夜市は三更(午前2時)まで続き、五更(午前4時)には再開する。賑やかな場所は夜通し営業である。)
農業面でも、大規模民営養鶏場・養豚場・牧羊場が登場し、都市への肉類供給はすでに「産業化・物流化」されていました。
ただし、北宋と南宋では制度が大きく異なり、また都市と農村の格差も極端でした。都市は繁栄しても、農村は貧困と重税に苦しんでいました。
明末:二つの「革命前夜」が並存する時代
明末の社会を見ても、地域によって全く異なる「歴史のシナリオ」が進行していました。
関中・中原地方では、「土地兼併→流民→農民蜂起」という古典的な王朝崩壊パターンが展開されていました。
一方、江南地方では、「商業資本の台頭→抗税運動→海外貿易・海賊経済の拡大」という、まるで「西欧型資本主義革命前夜」のような光景が広がっていました。
『明史·食貨志』:
「江南富庶甲天下、然賦役繁重、民多逋逃。」
(江南は天下一の富庶なり、然るに賦役繁重にして、民多く逃散す。)
これは、同一国家内に「二つの経済圏・二つの歴史段階」が並存していたことを示しています。
結語:五千年の試行錯誤
以上、挙げたすべての例と現代語の比喩は、理解を助けるための便宜的なものです。決して「中国の古代が現代と同じ制度だった」と主張するものではありません。
しかし、これらの事例から明らかなように、中国は五千年の歴史の中で、数えきれないほどの政治体制・経済モデル・司法制度を試行錯誤してきました。
「二千年間、何も変わらなかった」——そんなステレオタイプは、歴史的事実に反する幻想にすぎません。
むしろ、中国の歴史は「多様性と変化の連続」であり、人類文明の制度的実験場として、極めて豊かな遺産を残しているのです。