劉裕が統一を果たせなかった最大の理由は寿命不足だったのか?
劉裕が統一を果たすためには、歴史の「脚本」そのものを大きく書き換える必要がある。すなわち、彼に高い出自を与えて、下層からの苦闘を省略するという選択肢である。しかし、そうして生まれ変わった「劉裕」は、果たして「気吞万里如虎」(万里を吞む気概、虎のごとし)という評価を受けるほどの英雄となっただろうか?ここに一つのパラドックスが生じる。
劉裕が統一を果たすためには、歴史の「脚本」そのものを大きく書き換える必要がある。すなわち、彼に高い出自を与えて、下層からの苦闘を省略するという選択肢である。しかし、そうして生まれ変わった「劉裕」は、果たして「気吞万里如虎」(万里を吞む気概、虎のごとし)という評価を受けるほどの英雄となっただろうか?ここに一つのパラドックスが生じる。
そもそも、劉裕はすでに六十歳まで生きており、仮に七十歳、八十歳まで寿命を延ばしたとしても、老衰による体力・判断力の低下は避けられず、大局への貢献は限定的であろう。
むしろ、劉裕の「局」を打開する最善策は、劉道規と劉穆之の寿命を延ばすことにある。
一、義熙八年(412年)~義熙十二年(416年):劉道規の死と北伐の遅延
劉道規が義熙八年(412年)に没してから、劉裕が後秦征討のため北伐を開始する義熙十二年(416年)までの四年余り、東晋は北方への軍事的拡張をほぼ停止した(譙蜀征討を除く)。これは、劉裕と北府軍が最も勢いに乗っていた時期に他ならず、まさに「黄金期の浪費」と言える。
その原因は、劉道規の死後に荊州で発生した劉毅・司馬休之の二度の内乱にある。
劉道規が存命であれば、劉毅が荊州に入ることはあり得ず、その反乱も成立しなかっただろう。実際、盧循の乱における二人の戦いぶりを見れば、その能力の差は歴然としている。
《晋書・巻八十五》
「徐道覆、毅将至建鄴を聞きて、盧循に報じて曰く、『劉毅兵重く、成敗は此の一戦に係わる。宜しく力を併せて距ぐべし』と。循乃ち兵を率いて巴陵を発し、道覆と連旗して下る。毅、桑落洲に次ぎて賊と戦い、敗績す。船を棄て、数百人を率いて歩き去る。余衆皆賊に虜され、輜重盈積して皆棄つ。毅走り、蛮晋を経て、飢困死亡す。至る者は十の二三なり。参軍羊邃、力を尽くして之を護り、僅かに免る。」
一方、劉道規はというと:
《宋書・巻五十一》
「前驅不利なりしも、道規壮気愈々励み、三軍を激揚す。遵、外より横撃して、大いに之を破る。斬首万余級、水に赴きて死する者殆ど尽くす。道覆、単舸して盆口に走る。初め、遵を遊軍と為す。衆皆曰く、『今強敵眼前にあり、唯患むは衆少なること。見るべき力を割いて無用の地に置くことあるべからず』と。及んで道覆を破り、果たして遊軍の力を得たり。衆乃ち服す。」
劉毅は自軍をほぼ全滅させ、辛うじて命を保ったに過ぎない。対照的に、劉道規は危機的状況下でも冷静に戦いを指揮し、最終的に徐道覆を撃破して勝利を決定づけた。この戦功により、劉道規は「劉宋第一の将」と称されたのである。
当時の人々も、この差をよく理解していたに違いない。もし劉道規が存命であれば、劉毅は荊州に入ることも、人心を得ることもできなかっただろう。劉裕が劉毅を制圧するのは、容易なことだったはずである。
劉毅の乱がなければ、その後の司馬休之の反乱も起こらなかっただろう。荊州が劉道規によって安定的に統治されていれば、北伐はもっと早く開始され、歴史はまったく異なる展開を見せたに違いない。
たとえ416年の北伐が予定通り行われたとしても、劉道規が参戦していれば、その後の関中の防衛も大きく変わっていたはずである。劉穆之が没した後でも、劉裕が自ら長安に留まるか、あるいは劉道規を長安に派遣して守備を任せる——いずれにせよ、関中喪失という悲劇は回避できた可能性が高い。
二、義熙十三年(417年)~永初三年(422年):劉穆之の死と政権の崩壊
もう一つの「失われた五年」は、義熙十三年(417年)末の劉穆之の死から、永初三年(422年)の劉裕の没までである。この間、劉宋は軍事的に完全に停滞し、関中を失うという重大な後退を強いられた。
劉穆之は、劉裕が建康に入城してからその死に至るまで、常に「大管家」として政務を一手に引き受けてきた。その業績は、単なる補佐役の域を超えている。
《宋書・巻四十二》
「京邑を平らげし時、高祖始めて至り、諸の大処分、皆倉卒に立定せられ、並びに穆之の所建なり。……時、晋の綱紀弛緩し、威禁行わず、盛族豪右、勢いを負いて陵ぐこと縦(ほしいまま)なり。小民窮蹙し、自立する所なし。重ねて司馬元顕の政令違舛し、桓玄の科条繁密なり。穆之、時宜を斟酌し、方(かた)に随いて矯正す。旬日を盈(みち)たざるに、風俗頓(とみ)に改まる。」
劉裕が外征に明け暮れる間、劉穆之は内政を完璧に整え、混乱していた晋末の政治秩序を「移風易俗」の域まで回復させたのである。さらに、彼は自らを「汚す」(贅沢な生活を演じる)ことで、劉裕の猜疑心を避ける知恵も持っていた。まさに「打天下の帝王の心腹」と呼ぶにふさわしい人物だった。
史書に記されたわずかな記述では、その功績の全貌を語り尽くすことはできない。劉穆之こそ、劉裕の「創業」を支えた最大の功臣であり、「唯一無二の補佐者」であった。
ただ一つの過ちといえば、劉裕が洛陽を占領した後、即座に「九錫」を送らなかったことだろう。劉裕は左長史の王弘を建康に派遣し、「明示」を求めるに至った。
この一件は、表面的には些細なことのように見えるが、深読みすれば「荀彧事件」(曹操の重臣・荀彧が九錫問題で失脚した例)に匹敵する政治的危機とも言える。劉裕の対応はあくまで「戒め」にとどまっていたが、劉穆之はこれを重く受け止め、憂懼して病に倒れた。
《南史・巻十五》
「帝後、復た曰く、『穆之死して、人我を轻易(かろん)ず』と。其の思われる所、此の如し。」
劉裕が「穆之が死んでから、人々は私を軽んじるようになった」と嘆いたというこの一言は、劉穆之の存在がいかに不可欠だったかを物語っている。これは、開国帝王が部下に対して発する言葉としては、極めて稀有かつ最高の評価である。
結論
要するに、劉裕の「気吞万里如虎」という英雄的業績が、その後の十年で無為に終わってしまった最大の原因は、劉道規と劉穆之という二人の柱石の早逝にある。
しかし、仮に劉裕が統一を果たしたとしても、その子孫の無能ぶり(たとえば劉義隆が帝位に就けなかった可能性)を考えると、果たしてそれが「善政」につながったかは疑問である。
歴史を俯瞰すれば、南北朝時代の混乱は、やがて隋唐という新たな統一王朝へとつながり、胡漢融合という重大な課題を解決した。この役割は、北朝の系譜に立つ隋唐にしか果たせなかったものであり、南朝の士族政権では到底達成できなかっただろう。もし南朝が統一を果たしていたら、西晋の二の舞——短期間で崩壊する可能性すらあった。
ゆえに、劉裕はこのまま「金戈鉄馬、気吞万里如虎」という千古の英雄伝説として後世に語り継がれるのが、むしろ最善の結末なのかもしれない。