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于謙は本当に忠臣だったのか?乾隆帝以前、于謙の評価はどうだった?

于謙という人物は、明代を通じて評判が芳しくなかった。その評価が転換を遂げたのは、乾隆帝以降のことである。やがて誰かが即座にこう反論するだろう。「于謙は冤罪で処刑されたのだ。『明史』にその記録があるではないか——『于謙は社稷を守り、功績顕著なり。然るに誅せられて天下惜しむ』(『明史』巻一七〇〈于謙伝〉)と。」確かにその通りである。

龍の歩み龍の歩み

于謙という人物は、明代を通じて評判が芳しくなかった。その評価が転換を遂げたのは、乾隆帝以降のことである。

やがて誰かが即座にこう反論するだろう。「于謙は冤罪で処刑されたのだ。『明史』にその記録があるではないか——『于謙は社稷を守り、功績顕著なり。然るに誅せられて天下惜しむ』(『明史』巻一七〇〈于謙伝〉)と。」

確かにその通りである。しかし忘れてはならないのは、『明史』は清朝が編纂した史書であるということだ。清朝が百年近くかけて編んだこの正史は、しばしば宋・明の歴史を意図的に歪曲・逆転させている。これは決して過言ではない。

かつて筆者が『明史』を読んだ際、明代の皇帝たちはことごとく奇行に走る「狂気の君主」のように思われた。しかし後に『明実録』や『国榷』(談遷著)、さらには朝鮮王朝の『李朝実録』などを読むに及んで、清朝がいかに宋明の歴史をねじ曲げていたかを痛感したのである。

古来より「以史為鑑、可知興替」(歴史を鏡とすれば、盛衰の理を知ることができる)と説かれるが、それは「真の歴史」を読んでいることが前提である。もし読者が清朝が恣意的に編纂した『明史』のみを信じているならば、そこにはただ「狂気の大臣」と「狂気の皇帝」の物語しか存在しない。

清朝の史観に従えば、「太陽の下に新しきものなし」という諺すら無意味になる。なぜなら、彼らが描く明代皇帝の「奇行」は、前五千年・後五千年を通じても類例が見当たらぬほど、非現実的かつ誇張されているからである。

『清史稿』を読めば、于謙は純潔無垢な「白蓮華」であり、彼を処刑した英宗は愚昧な暴君として描かれる。
しかし、『明実録』や『国榷』、『李朝実録』といった同時代史料を参照すれば、実像はまったく異なる。

英宗(朱祁鎮)は決して昏庸な君主ではなく、むしろ復辟(奪門の変)後には政治を再建し、国政を整えた有為の皇帝であった。一方、于謙は元朝以来の世襲貴族(注:実際には杭州の軍籍出身であり、元朝貴族ではないが、清朝の叙述はしばしばその出自を誇張・歪曲する)として、土木堡の変において皇帝を裏切り、国家の危機を招いた権臣として描かれる。

英宗が于謙を処刑した際、「天下が反対した」などという事実は、実は存在しない。
『明英宗実録』巻二七六にはこう記されている:

「謙罪状明白、法当誅。然りと雖も、其の党類を濫及することなかれ。」

——『明英宗実録』巻二百七十六

つまり、于謙の同僚・関係者たちは、彼の罪が自分たちに波及することを恐れ、「処刑はやむなし」としながらも、罪を于謙一人に留めるよう求めたのである。英宗も政変直後であり、人心安定のため、この要請に応じて「謀反」ではなく「擅専」(専断)という比較的軽い罪名で処刑した——これが史実の真相である。


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