現在位置:首页 > 明朝の冒険と閉鎖

于謙は本当に英雄だったのか?なぜ于謙は処刑されたのか?

天順年間(1457–1464)において、于謙(1398–1457)の評判は、後世の「忠臣」像とは大きく異なり、むしろ極めて悪かった可能性が高い。人間の政権とは所詮、臨機応変の寄せ集めであり、歴史は常に「喜ぶ者あり、嘆く者あり」の連続である。土木の変(1449年)後の混乱期に于謙が行った軍制改革は、短期的には京師防衛に成功したものの。

龍の歩み龍の歩み

天順年間(1457–1464)において、于謙(1398–1457)の評判は、後世の「忠臣」像とは大きく異なり、むしろ極めて悪かった可能性が高い。人間の政権とは所詮、臨機応変の寄せ集めであり、歴史は常に「喜ぶ者あり、嘆く者あり」の連続である。土木の変(1449年)後の混乱期に于謙が行った軍制改革は、短期的には京師防衛に成功したものの、その裏には庶民の血と涙が流されていた。

一、農民を兵に――「耕戦一体」の強制復活

土木の変後、明の軍事力は壊滅的打撃を受けた。この危機に対し、于謙は三つの「巧妙だが苛烈な」手段で衛所(衛所制度)を満たそうとした。その第一は、農民を強制的に兵士として動員することであった。

『明実録・英宗実録』巻一八六(景泰元年正月)には、次のように記されている:

「大同・宣府諸処、軍士不足。命有司募民丁、農隙に城守に従事せしむ。農務に及べば還農す。」

これは、春秋戦国時代の「耕戦一体」体制を彷彿とさせる措置である。しかし、孔子は『論語・子路』においてこう述べている:

「民を教へずして之を戦はしむるは、是れ之を棄つるなり。」

まさにこの孔子の戒めに反し、于謙は未訓練の農民を前線に送り込み、大同・宣府では多数の死者を出した。百姓の命を「人肉の盾」として使い捨てたのである。

二、募兵から「軍奴」へ――信用の喪失

第二の手段は、募兵(傭兵)を「正式軍籍」に強制転換することであった。景泰元年(1450年)、于謙らは「民壮」「郷勇」および「軍余」(衛所兵の家族)を大量に募った。当初は「雇われ兵」であったが、戦が始まると、彼らは「名籍に載せられた謫充軍(罪人兵)」へと変貌した。

『明実録・英宗実録』巻二〇三(景泰二年四月)には、景泰三年(1452年)に「逃軍者を梟首す」との記録があり、
逃亡すれば処刑されるという恐怖政治が敷かれた。

景泰四年(1453年)、監察御史・左鼎は上奏してこう批判した:

「朝廷、信を失ふこと甚だし。募兵多しといへども、皆は飢寒に迫られし者なり。」(『明史・左鼎伝』)

また、御史・練綱も「募兵多系艱窘飢寒」と痛烈に非難している(『国朝献徴録』巻六三)。こうして、彼らは「逃げられず、給与も受けられぬ軍奴」と化した。

さらに皮肉なのは、食糧不足の年には一時的に「放免」され、必要になれば再召集されるという、いわば「核動力の驢馬(ロバ)」のごとき扱いを受けたことである。

奪門の変(1457年)後、英宗が復位しても、こうした「幽霊兵士」は十万余人も残っていた。『明実録・英宗実録(天順朝)』巻一六五(天順八年)には、英宗がついに彼らを「正軍戸」に編入し、俸禄を与えて「二十年の積弊を一掃す」と記されている。

三、軍余の全面徴発――朱元璋体制の崩壊

第三の手段は、「軍余」、すなわち衛所兵の家族男子を全員徴発することであった。本来、明初の制度では「四口の家は一丁を出し、七口以上は二丁を出す」とされ、「軍戸は三分兵、七分屯(兵役3割、農耕7割)」が原則だった(『大明会典』巻一二一)。

ところが于謙は、「屯田は不要。全男丁を兵にせよ」と命じた。しかし、給与・糧食は「編制人数分」しか支給されない。四人の男がいても、一人分の口糧しか与えられない。「餓死するなら、自分で何とかしろ」という冷酷な現実であった。

この政策は、すでに正統初年に「三楊」(楊士奇・楊栄・楊溥)が衛所の糧餉を削減したことで軍士の逃亡が相次いでいたところに、さらに追い打ちをかけた。于謙の改革は、朱元璋が築いた軍屯制度の最後の信用を完全に打ち砕いたのである。

その結果、嘉靖年間には「衛所兵百二十名の定員に対し、実員は一人」という惨状に至った(『明史・兵志』)。戦はすべて地方官が市井の徒を募って、二ヶ月訓練して送り出す有様だった。当時の諺に曰く:

「衛所兵を見んと欲せば、芋を掘れ。その形、兵に似たり。」

結語:英雄か、加害者か?

于謙は、土木の変で失われた二十万の京軍をわずか二年で「再建」した。だが、それは「魔法」でも「忠義」でもなく、庶民の犠牲の上に成り立っていた。「質量保存の法則」のごとく、兵士は虚空から湧いてはこない。彼が京師を守れたのは、制度を無視した「非常手段」によるものだった。

天順元年、于謙が処刑された際、菜市口に集まった兵士たちが腐った大根を投げつけ、彼の死を歓喜したという記録は、決して誇張ではない。彼は確かに大明を救った英雄である。同時に、無数の「軍奴」を生み出した官僚でもあった。

歴史は単純な善悪で語れない。于謙の功罪は、その両面を静かに見つめることで、初めて真の教訓となるのである。


トップに戻る