衛所制って何?なぜ明軍は土木の変で大敗してもすぐ戦えた?
当時の明王朝は、依然として衛所制を軍事制度の根幹としていた。この制度は、現代の目で見れば「バグだらけ」の欠陥システムとも言えるが、突発的な大規模戦闘損失に対しては、驚異的な回復力を発揮した。たとえ主力が壊滅しても、極めて短期間で兵力を再建できたのである。衛所制は単なる軍事編成ではなく、戸籍制度そのものでもあった。
当時の明王朝は、依然として衛所制を軍事制度の根幹としていた。この制度は、現代の目で見れば「バグだらけ」の欠陥システムとも言えるが、突発的な大規模戦闘損失に対しては、驚異的な回復力を発揮した。たとえ主力が壊滅しても、極めて短期間で兵力を再建できたのである。
衛所制は単なる軍事編成ではなく、戸籍制度そのものでもあった。ある者が「某衛某所」の軍籍に編入されると、通常の民戸が負担する賦役・課税の一部が免除される代わりに、軍役の義務が課される。最も重要な点は、その家の男子が代々一人ずつ軍役を継承しなければならないという世襲制である。また、その軍役者を支えるための経費や物資は、家族が負担することになっていた。
例えば、「左衛左所第四百戸所」に編入されたとしよう。その瞬間から、本人およびその子孫の戸籍は「左衛軍籍」となり、本人が年老いた暁には、嫡男がその軍職を継ぐ。次男以下は自由に科挙を受けることも、商売を始めるのも、農耕や手工業に従事するのも自由である。
あるとき、嫡男が戦傷を負い軍役を続けられなくなったため、その嫡男(すなわち孫)が代わりに軍役を引き継いだとしよう。ところが、この孫が正統十四年(1449年)の土木の変で皇帝・英宗(朱祁鎮)に従って出征し、戦死してしまう。年はわずか二十歳、新婚間もなく、子もまだいない。
悲嘆に暮れる家族のもとへ、兵部と五軍都督府が連署した軍帖が届く。内容は、「嫡孫の軍役を、次男の息子(つまり六歳の次孫)が継げ」というものだった。しかし、六歳では戦場に出すわけにはいかない。そこで、四十歳で豆腐屋を営んでいた次男が、強制的に軍役に徴発された。兵部はさらに丁寧にこう伝える。「あなたは一時的な代理である。次孫が十六歳になれば、必ずその軍役を引き継がせること。その際、あなたは軍役から解放される。」
ここで、問題の核心が見えてくる。
たとえ明軍が土木堡で編成を失い、半数以上が戦死したとしても、あるいは全滅したとしても(実際にはあり得ないが)、明王朝は極めて短期間で京師の兵力を回復できた。英宗が率いた十二万の大軍が、わずか三万しか帰還しなかったとしても、兵部が迅速に軍帖を発し、五軍都督府が戸籍簿を照合すれば、一か月もかからずに十二万の兵力を再建できるのである。もちろん、その大半は戦闘経験ゼロ、刀すら握ったことのない者たちだったが、当時の戦争においては、「人数」こそが最大の戦力だった。
言い換えれば、衛所制の「即時動員・即時補充」能力は、まさにシステム上のバグだった。
史料による裏付け
現存する明代の『衛所選簿』には、正統十四年秋から冬にかけて、大量の軍職継承記録が残されている。特に京衛(首都防衛を担う衛所)では、その多くが「父または兄が迤北(いほく)にて失陷」あるいは「征進未帰」と記されており、これは土木の変での戦死または行方不明を意味する。一部には「徳勝門にて戦死」とあるものもあり、これは土木の変後の北京防衛戦(同年十月)での戦死者を指す。
例えば、『府軍前衛選簿』には次のような記録がある:
前左所副千戸 陳貴:「征傷」(戦傷を負い帰還)
→ 正統十四年九月、嫡長子・陳璽(31歳)が職を継ぐ。中所副千戸 張俊:「征進未帰」(戦死または行方不明)
→ 嫡長男・張鐸が襲職。
(※出典:《明実録・英宗実録》巻181~183、および明代衛所選簿残巻)
土木の変後も「戦い続けた」明軍
なお、土木の変で全軍が壊滅したわけではない。当時、京衛の一部は西南の麓川征討や甘粛方面への増援に派遣されており、無事帰還した部隊も存在した。
例えば、金吾右衛指揮同知・罕刹海(洪武年間に応昌より帰附したモンゴル系将領)は、正統十四年、臨山堡(粛州東)で「賊を討ち功あり」と記録されている(《明英宗実録》巻182)。この戦いは、蒙古勢力の攻撃に対し、明軍が複数回にわたり惨敗を喫したものの、依然として戦闘を継続し、戦功を挙げた者がいたことを示している。
ここで一つの疑問が生じる。
なぜ、正統十四年七月・八月の明軍は連戦連敗だったのに、九月・十月になると戦況が持ち直したのか?
もし明軍に勝算が全くないのなら、臨山堡のような戦いが「一波、また一波」と繰り返されるはずがない。現代の比喩で言えば、私が「君、プロボクサーの鄒市明と戦え」と命じ、君が一ラウンドでKOされたとする。次に同席の友人に「お前も行け」と命じたら、彼もまた真っすぐリングに向かう——しかも、また即KOされる。さらに三人目にも「行け」と言えば、彼も行く。明軍はそれほどまでに「視死如帰」だったのだろうか?
実際には、土木の変の時点で、すべての京衛が動員されたわけではない。多くの将兵が首都に残っており、その後の北京防衛戦で重要な役割を果たした。
例えば、金吾右衛千戸・張全は、永楽二十一年(1423年)に千戸を襲職しており、土木の変での戦死記録はない。むしろ、景泰元年(1450年)と記録され、指揮僉事に昇進している(《明英宗実録》巻205)。
即席再編された「新生京軍」とその限界
土木の変後、明王朝は山東・河南などの地方衛所から緊急動員を行い、わずか2~3か月のうちに、新たな京軍を編成した。この軍は戦闘力こそ旧来の精鋭に及ばないものの、制度上は完全に「正規軍」であり、北京防衛戦を通じて実戦訓練を経験した。
その後、于謙(うけん)が主導して行われた「十団営」の整編は、まさにこの「泥濘混交(でいねいこんこう)」——良し悪しの区別なく動員された大量の新兵によって戦力が希釈された状況を是正するための措置だった。この整編で選抜された精鋭だけでも十万人に達し(《明史・于謙伝》)、中央軍の規模と威信は依然として地方勢力を圧倒していた。
結び:崇禎帝の悲劇と歴史の教訓
もし崇禎年間(1628–1644)の明王朝が、正統年間の三分の一でもの動員力・制度的柔軟性を発揮できていたなら、崇禎十七年(1644年)——李自成軍が北京を包囲した際、城壁の上に兵士を並べることすらできなかったという悲劇は、おそらく避けられただろう。