劉邦・劉備・劉裕はなぜ同じ「劉」姓でも政権構築の成功度が違うのか?
劉邦は一見、卑しい出自に見えるが、その軍団の制度化・組織化の程度は極めて高かった。その証拠として、爵位と職務が明確に分離された体系が存在していたことが挙げられる。たとえば灌嬰(かんえい)は、楚風の爵位である「執帛(しゅうはく)」「執珪(しゅうけい)」を相次いで授けられたが(『史記』巻九十五〈樊酈滕灌列伝〉)。
劉邦は一見、卑しい出自に見えるが、その軍団の制度化・組織化の程度は極めて高かった。その証拠として、爵位と職務が明確に分離された体系が存在していたことが挙げられる。たとえば灌嬰(かんえい)は、楚風の爵位である「執帛(しゅうはく)」「執珪(しゅうけい)」を相次いで授けられたが(『史記』巻九十五〈樊酈滕灌列伝〉)、同時にその職務は「郎中(ろうちゅう)」「中謁者(ちゅうえつしゃ)」などであった。このように、爵位と職務は完全に独立したシステムとして運用されていたのである。
また、韓信(かんしん)も項羽(こうう)の下では「郎中」を務めていたが、劉邦に帰順後は「治粟都尉(ちしょくとたい)」という都尉職の一種から起用された(『史記』巻九十二〈淮陰侯列伝〉)。司馬遷は当時の爵位・職制の全体像を体系的に記していないが、人物列伝には「連尹(れんいん)」「連敖(れんごう)」「左司馬」「右司馬」など、多様な官職・軍職の名称が散見される。これは、当時の制度がすでに高度に分化・専門化されていたことを示している。
リーダーが「この人物は優れている」と見て単に引き入れようとするのは、いわゆる「即席の寄せ集め」にすぎない。成熟した体制とは、まず「どのような機能が必要か」を明確にし、それに見合う人材を的確に配置することである。
後世の劉裕(りゅうゆう)もまた卑しい出自でありながら、その勢力拡大と人材登用の速度は極めて迅速であった。それは、魏晋南北朝期にはすでに「開府称制(かいふしょうせい)」——すなわち自ら幕府を開き、独自の官僚機構を設置する——という制度が十分に成熟していたためである。劉裕が幕府を設置した際、彼は「主簿(しゅぼ)」という職が極めて重要であることを理解していた。しかし、適任者が見つからず、「求賢若渇(きゅうけんじゃっかつ)」の思いを抱いていたところ、何無忌(かむき)が劉穆之(りゅうぼくし)を推薦した(『宋書』巻四十二〈劉穆之伝〉)。後に劉裕が帝位に就くことができたのは、劉穆之の補佐によるところが極めて大きかったと記されている。
「賊兵無陣(ぞくへいむじん)」——すなわち「賊軍には陣形なし」
逆に、制度や行政体系に不慣れな勢力は、一歩も二歩も後れを取ることになる。例えば、農民蜂起軍はしばしば「賊兵無陣(ぞくへいむじん)」——すなわち「賊軍には陣形なし」——と記録されている(『後漢書』巻七十一〈皇甫嵩伝〉)。同様に、行政制度への理解がなければ、統治機構を確立することも困難である。
晋末の五胡十六国期において、劉淵(りゅうえん)は生まれながらにして「五部大都督(ごぶだいととく)」であり、洛陽の朝廷に仕え、さらに鄴城(ようじょう)でも官職を歴任していた(『晋書』巻一百一〈劉元海載記〉)。一方、奴隷出身の石勒(せきろく)は、自らの統治機構を整えるまでに一代の歳月を要した。石勒がようやく劉淵と対等に渡り合える体制を整えた頃には、劉淵はすでに帝位に就き、死去しており、その子孫の間で既に数度の帝位交代が起こっていたのである。
三人の比較:制度資源が決定的
劉邦、劉備、そして劉裕を比較すると、彼らの政権構築能力は、単に個人の才覚に依るだけでなく、それぞれが置かれた歴史的状況と制度的資源の有無に大きく左右されていたことが明らかである。
劉邦の時代:秦の制度を継承
劉邦の時代(秦末・楚漢戦争期)は、六国滅亡からわずか十数年しか経っておらず、旧貴族・吏員・軍人が多数生存しており、制度的知識と人材が断絶していなかった。たとえば楚制の「執帛」「執珪」はそのまま利用可能であり、秦の「郡県制」や「軍功爵制」も依然として実用性を保っていた。特に重要なのは、劉邦が咸陽(かんよう)に入城した際、蕭何(しょうか)が真っ先に丞相府を占拠し、「律令・図籍・文書を悉く収めた」(『史記』巻五十三〈蕭相国世家〉)という事実である。これにより、劉邦政権は秦の行政システムをほぼ完全に継承し、「既製の制度テンプレート」を手に入れた。そのため、張蒼(ちょうそう)、蕭何、曹参(そうさん)、周勃(しゅうぼつ)といった秦制に通じた人材を登用するだけで、即座に機能する政権を運営できたのである。これは決して「感覚で集めた寄せ集め」ではなかった。
劉裕の時代:幕府制度の成熟
一方、劉裕の時代(東晋末年)は、朝廷の権威が著しく衰退していたが、「開府称制」の慣行はすでに確立されていた。地方の軍閥や権臣が自ら幕府を開く際には、「長史」「司馬」「主簿」「参軍」「記室」などの職制が標準的に整備されていた。これは現代の企業における「標準的な組織図」に近いものであり、ゼロから模索する必要はなかった。劉裕は「主簿は文書を総括し、政務を調整する要職である」と理解していたからこそ、劉穆之を重用したのである。
劉備の時代:制度的劣位
これに対して、劉備(りゅうび)が活動した東漢末年は、最も有力な諸侯が「四世三公(しせさんこう)」——四代にわたり三公(最高官職)を輩出した名家——である袁紹(えんしょう)・袁術(えんじゅつ)兄弟であった。彼らは家学に富み、門下には整然とした文武の班底を擁し、「士人を辟召(へきしょう)し、門下を広く開く」ことで、一時、群雄中最も強大な勢力を築いた(『後漢書』巻七十四上〈袁紹伝〉)。曹操(そうそう)ですら、兗州(えんしゅう)で呂布(りょふ)に敗れた際、一時は袁紹に帰順しようと考えたほどである(『三国志』魏書〈武帝紀〉)。曹操が官渡(かんと)の戦いで袁紹と正面对決できたのも、許攸(きょゆう)の裏切りという幸運に助けられたからであり、袁紹の死後、その子らの内紛がなければ、袁氏勢力の完全な消滅は難しかった。
このような状況下で、劉備はさらに低い出自にあり、人材獲得の機会も極めて限定されていた。彼が真正面から曹操に勝利したのは、ようやく漢中(かんちゅう)の戦いにおいてであったが、その際、曹操は「吾故知玄徳不弁有此、必為人所教也(われ、もとより玄徳(げんとく=劉備の字)がこれほどできぬことを知っていた。必ず誰かに教えられたに違いない)」と述べている(『三国志』蜀書〈先主伝〉裴松之注引『九州春秋』)。これは、劉備の周囲に優れた人材がようやく集まり、制度的運営が可能になったことを示す重要な証言である。
結論
劉邦、劉備、劉裕の三人はいずれも「卑しい出自」から天下を狙ったが、その政権構築の速度と質は、それぞれが利用可能な「制度的遺産」と「人材プール」の有無によって大きく左右された。個人の資質も重要ではあるが、歴史的・制度的文脈が、リーダーの可能性を大きく規定していたのである。