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劉邦と劉備は本当に似ている?なぜ劉邦は関中を取れたのに、劉備は北伐に失敗したのか?

「戦争の勝敗は、ある一方の実力ではなく、両軍の実力の対比にかかっている」——このことを、私はこれまで何度も強調してきた。一見、当たり前のようだが、実際には多くの人が問題を分析する際、一方の状況にばかり目を向け、両者の力関係を軽視しがちである。たとえば、劉邦が匈奴と戦った話をすれば。

龍の歩み龍の歩み

「戦争の勝敗は、ある一方の実力ではなく、両軍の実力の対比にかかっている」——このことを、私はこれまで何度も強調してきた。

一見、当たり前のようだが、実際には多くの人が問題を分析する際、一方の状況にばかり目を向け、両者の力関係を軽視しがちである。

たとえば、劉邦が匈奴と戦った話をすれば、漢初の疲弊した国力を語るばかりで、同時期の匈奴の国力に目を向ける者は果たしてどれほどいるだろうか? 李世民が突厥を滅ぼした話をすれば、「唐の君臣の英明さ」ばかり称えられ、東西突厥の内情を真に理解している者はどれほどいるだろうか? 趙匡胤が「先南後北」の戦略を採り、燕雲十六州を攻めなかったことを「合理的」と評する声も多いが、果たして遼国の状況——たとえば穆宗と景宗の時代では遼国の実力がまったく異なっていたこと——を考慮に入れているだろうか?

この問題も、まさに同じ論理が適用される。

本稿が論じたいのは、劉邦と劉備は果たして類比可能なのか、という点である。

確かに、戦争の「一方」だけを見れば、類似点はある。古漢水の河道変遷を除けば、劉邦も劉備も「巴蜀+漢中」を根拠地としており、基本盤に一定の共通性がある。類比が無意味とは言えない。

しかし、戦争は両者の対決である。ならば、彼らの「相手」は果たして比較可能なのか?

劉邦の相手は、分裂し、人心を失った「三秦」だった

劉邦が関中を奪取する際に最大の有利要因は、北方が分裂していたこと、さらには関中そのものが三つに分かれていたことである。

項王乃立章邯為雍王,王咸陽以西,都廢丘……立司馬欣為塞王,王咸陽以東至河,都櫟陽;立董翳為翟王,王上郡,都高奴。

『史記・項羽本紀』

すなわち、項羽は関中を三つに分割し、章邯を雍王(雍の王)、司馬欣を塞王(塞の王)、董翳を翟王(翟の王)として封じたのである。

つまり、北方には統一政権どころか、関中すら一つの政権で統治されていなかった。しかも、この三人の能力と結束力は極めて脆弱だった。

韓信はこの点を鋭く指摘している。『史記・淮陰侯列伝』に曰く:

項王詐阬秦降卒二十餘萬,唯獨邯、欣、翳得脫,秦父兄怨此三人,痛入骨髓。今楚彊以威王此三人,秦民莫愛也。

『史記・淮陰侯列伝』

項羽が秦の降卒二十万余人を欺いて坑殺した際、章邯・司馬欣・董翳の三人だけが生き延びたため、秦の民衆はこの三人を「骨の髄まで憎んで」いた。楚(項羽)が強権で三人を王に据えても、秦の民は誰一人として彼らを慕わなかったのである。

一方、劉邦は関中入りの際、「秋毫も害せず、秦の苛法を除き、民と三章の約を結んだ」(『史記・高祖本紀』)。そのため、

秦民無不欲得大王王秦者。……大王失職入漢中,秦民無不恨者。

『史記・高祖本紀』

秦の民衆はこぞって劉邦を王として迎えようとした。その人心の帰趨は明らかだった。

実際、劉邦が漢元年(前206年)8月に関中進攻を開始すると、わずか5か月後の翌年正月には、章邯が廃丘で孤立無援のまま籠城を続ける一方、司馬欣・董翳は早くも降伏してしまった。

なぜか?『史記』によれば、司馬欣はかつて項梁に恩を施した旧縁で、董翳は章邯の楚降伏を勧めた功績で項羽に重用されたに過ぎず、軍事的才覚は乏しかったのである:

長史欣者,故為櫟陽獄掾,嘗有德於項梁;都尉董翳者,本勸章邯降楚。

『史記・項羽本紀』

要するに、劉邦の直接の相手は「名将・章邯+無能・二人」の構図であり、しかも三人は協力せず、民衆の支持も皆無だった。

そして、最大の脅威・項羽は「手が回らなかった」

もちろん、劉邦が関中を奪えば、項羽が反撃に出てくる可能性はあった。章邯が長期籠城を続けたのも、項羽の援軍を期待していたからかもしれない。

しかし、項羽はその時、三方面で同時多発的に反乱に直面していた

是時,漢還定三秦。項羽聞漢王皆已併關中,且東,齊、趙叛之:大怒。

『史記・項羽本紀』

趙では陳餘が張耳を追い出し、趙歇を復位させ、 斉では田栄が暴走し、膠東・斉・済北を次々と併合していた。

この状況下、項羽は「最も脅威なのは劉邦ではなく、彭城(西楚の首都)のすぐ北にいる田栄だ」と判断し、自ら斉征伐に向かい、劉邦には鄭昌という無名の人物を韓王として送り込むにとどめた:

乃以故吳令鄭昌為韓王,以距漢。

『史記・項羽本紀』

結果、鄭昌は劉邦軍にあっけなく撃破された。

さらに、項羽が斉で「城郭・家屋を焼き払い、降卒を皆殺し、老弱婦女子を虜囚にする」(『史記』)という残虐行為に出たため、斉の民衆は総反乱。田栄の弟・田横が数万の兵を集め、城陽で再起し、項羽は完全に斉の泥沼に足を取られてしまった。

項王因留,連戰未能下。

『史記・項羽本紀』

つまり、劉邦が関中攻略を進めていた時期、最大の敵・項羽は斉の反乱に深く嵌まり、救援どころではなかったのである。

劉備の状況は、まったく逆だった

以上を踏まえれば、劉邦の有利な条件を劉備に当てはめてみよう。

劉邦の条件は以下の通り:

  1. 北方は十数の小国(三秦・常山・趙・河南・韓・魏・殷・遼東・燕・斉・膠東・済北など)に分裂していた。
  2. 関中は三つに分かれ、互いに協力せず。
  3. 三秦王は民衆から憎悪され、劉邦は民心を掌握。
  4. 最大の敵・項羽は他方面で戦闘中で、救援不能。

では、劉備の状況はどうか?

  • 劉備が益州を掌握した際、北方はすでに曹魏という統一政権が「天下の三分の二」を支配していた。
  • 関中は分裂どころか、中原と一体となって堅固に統治されていた。
  • 曹魏の将帥は、初期の夏侯楙(「夏侯駙馬」)を除けば、曹真・司馬懿といった当世一流の名将ばかり。司馬欣・董翳とは比較にならない。
  • 曹魏は関中で人心を失っておらず、むしろ曹操の統治は一定の支持を得ていた。

もし劉邦の条件を無理やり劉備に当てはめるとすれば、こんな空想が必要になる:

  1. 曹魏が分封制を復活させ、北方を十数の小国に分割。皇帝は亳州に籠る。
  2. 関中を三つに分け、司馬懿・夏侯楙・孟達を「三秦王」とする。
  3. 曹操がかつて関中で四十万の降卒を虐殺し、民衆が三人を「骨の髄まで憎む」。
  4. 蜀漢が北伐を開始すると、数か月で夏侯楙・孟達が降伏し、司馬懿だけが孤軍奮闘。
  5. 曹叡が救援を試みるも、山東・山西で大規模反乱が勃発し、手が回らない。

こうなれば、確かに蜀漢の北伐は容易だっただろう。

だが、現実はそうではなかった。

結論:戦争は「相対的力関係」で決まる

繰り返すが、戦争は一方の実力だけで成立しない。両者の力関係こそが勝敗を分ける

劉邦の成功は、彼の才能だけでなく、「分裂した敵」「失政した統治者」「他方面で手一杯の覇者」という三重の有利条件の上に成り立っていた。

劉備には、そのどれ一つもなかった。

ゆえに、劉邦と劉備を単純に類比するのは、歴史の複雑さを無視した議論である。


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