呂沢は本当に「二号人物」?史書から消された将軍の真実とは?
ある人物が歴史上どれほど重要であるかを測るには、その人を「削除」してみて、歴史の流れが大きく歪むかどうかを検証すればよい。これは一種の「カウンターファクトゥアル・ヒストリー(反事実的歴史)」的思考法である。陳慶之:白袍の将軍、しかし歴史には「代替可能」
ある人物が歴史上どれほど重要であるかを測るには、その人を「削除」してみて、歴史の流れが大きく歪むかどうかを検証すればよい。これは一種の「カウンターファクトゥアル・ヒストリー(反事実的歴史)」的思考法である。
陳慶之:白袍の将軍、しかし歴史には「代替可能」
「慶之率領二千騎、進んで滎陽を攻む。魏軍三十万、これを囲む。慶之白袍を着し、鼓を鳴らして突入す。魏軍、その鋭気を恐れて退く。」
『梁書』巻三十二
まさに「千軍万馬も白袍を避く」と称された猛将・陳慶之である。しかし、彼を歴史から消しても、大局はほとんど変わらない。彼がいたところで爾朱栄はさほど苦もなく彼を撃破し、彼がいなくとも爾朱栄は葛栄を討って北朝を統一し、「功高きこと孟徳(曹操)に比す」と称される地位を築いた(『魏書』爾朱栄伝)。唐代も宋代も、彼を武廟に祀らなかったのは、その「不可欠性」の低さを如実に物語る。
唯一の変数は楊忠であるが、陳慶之がいなくても、楊忠は自力で北方へ戻る道はいくらでもあった——賀抜勝に従うもよし、独孤信に従うもよし。陳慶之の存在は、決して「代替不能」ではない。
劉邦チーム:ここに「世界線を支える柱」がいる
「夫運籌策帷帳之中、決勝於千里之外、吾不如子房。鎮國家、撫百姓、給餽饟、不絶糧道、吾不如蕭何。連百萬之軍、戦必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也、吾能用之、此吾所以取天下也。」
『史記』高祖本紀
対照的に、劉邦の創業チームを見れば、蕭何・張良・韓信・酈食其の四人は「断層的な第一級人物」である。
「奇計或頗秘、世莫能聞也」
『史記』陳丞相世家
陳平は「陰謀の仕事」ゆえに史書にその功績を隠されている。彭越・英布は劉邦に喘息の時間を与えた重要な存在であり、彼らがいなければ劉邦の「創業ライン」は幾つもの断片に分断されてしまうだろう。
周勃・樊噲・盧綰・曹参らが無能だと言っているのではない。しかし、彼らは「代替可能」である。曹参は韓信軍の副将とはいえ、彼がいなくても韓信は趙・魏・斉を攻略できたはずだ。しかし——韓信を消してしまったら、誰が北伐の「神がかった戦い」を再現できるだろうか?
彭越・英布と比べれば、長沙王・呉芮や韓王信を消しても世界線は揺るがない。燕王・臧荼の孫娘が武帝の母方の祖母であるため消せない、という事情はあるが、彭城の戦いで戦死した殷王・司馬卬を消せば、後世の晋王朝が生まれなかった可能性すらある——消した方がむしろ「歴史の浄化」かもしれない。
要するに、蕭何以下の七人(張良・韓信・酈食其・陳平・彭越・英布・曹参?)以外の漢初功臣を消しても、世界線の分岐や崩壊は起きない。
呂沢:政治的理由で「透明化」されたが、「二号人物」ではない
呂沢は、政治的理由で史書から意図的に「透明化」された可能性が高い。しかし、彼がいなくても劉邦の創業プロセスは完結している。権勢が小さかったわけではないが、「二号人物」と呼ぶには程遠い——真の二号人物は蕭何であり、半壁の江山を切り開いたのは韓信である。
「天下既定、命蕭何次律令、韓信申軍法、張蒼定章程、叔孫通制礼仪。」
『史記』高祖功臣侯者年表序
政治的理由で人物を「透明化」することは可能だが、完全な「抹消・改竄」は不可能である。
なぜなら、正史だけでなく、民間の「私撰史」も存在するからだ。談遷は清朝による『明史』の独占に不満を持ち、自ら『国榷』を編纂した。『史記』『三国志』も元来は「私史」である。これら「前四史」(『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』)が「良史」と称されるのは、細部に誤差はあれど、全体の論理構造に断裂や矛盾がないからである。
歴史は土の中に埋まっている——周携王の例
殷・周の歴史こそ、この点で最も説得力がある。
伝統的な説では、「犬戎の乱」により関中が荒廃し、周平王はやむなく東遷したとされる。しかし——天子が立てない土地に、なぜ秦は根を下ろせたのか?
ここに歴史の「矛盾」がある。
しかし、歴史は正史だけに記録されるのではない。諸国の史料、青銅器の銘文にも刻まれている。晋代に出土した魏の史書『竹書紀年』には、西周滅亡後20年以上にわたって「二王並立」の時代があったと記され、周携王と周平王が天子の座を争ったとある。孔穎達の『春秋左伝正義』もこれを引用している。
「周亡王九年、邦君諸侯焉始不朝于周。晉文侯乃逆平王于少鄂、立之于京師。三年、乃東徙、止于成周。……携王奸命、諸侯替之、而建王嗣、用遷成周。」
『清華簡・繋年』第二章
「孤証不立」——だが、近年の盗掘で出土した楚の史書『清華簡・繋年』第二章は、周携王の存在を明確に証明し、「虢公翰が立て、晋文侯に殺された」と記す。宋代に出土した「兮甲盤」や清末の「虢季子白盤」も、間接的に周携王の存在を裏付けている。
これは、伝統的史料が「改竄」されたことを示すが、考古学的証拠が「真の歴史は消せない」ことを証明している。
呂沢が「韓信級」なら、痕跡は残っているはず
同様に、もし呂沢が本当に「韓信級」の大将であったなら、少なくとも一国、あるいは数国の攻略功績が残っているはずである(それがなければ、どうして韓信と同格と言えるのか?)。もし『史記』『漢書』に記載がなくても、『前漢紀』などの後世史料に痕跡が残るはずである。もし他人の功績に改竄されたとしても、『資治通鑑』『冊府元亀』などの総合史料が必ず疑義を呈し、考証するはずである。
しかし、現存する史料で最大の「疑問」は——呂沢とその弟・呂釈之の名前が混同されている可能性である程度である。
つまり、呂沢は「透明化」されたとしても、その主要な事跡は劉邦・項羽・呂后の本紀の中に散見される。周携王のように完全に消されたわけではない。歴史は土の中に埋まっている——「帝力於我何有哉」(天子の力など、我々に何の関係があろうか)(『詩経・小雅・北山』より)——まさにこの言葉が、歴史の真実を守る盾となる。
結語:呂沢の地位を否定しているのではない
私は呂沢の地位が低いと言っているのではない。劉邦の創業チームの最初から最後まで戦い抜いた人物である。妹は皇后、甥は太子——呂氏一族の権勢が小さかったはずがない。
しかし、「二号人物」「半壁江山」という評価は過大である。歴史は感情ではなく、構造と代替可能性で動く。人物を消して世界線が崩れるかどうか——それが、真の「歴史的重み」の尺度である。