劉邦はなぜ優れた将軍を敢えて使わなかったのか?蒯通を許した劉邦の真意とは?
多くの優れた将軍を置きながらも、使わなかった——それは「使えない」のではなく、「使いたくても使えない」、あるいは「使えば危険」という現実があった。多くの人は、劉邦の配下にいた将軍たちがみな忠誠心に満ちた腹心であり、決して裏切らないと信じている。だが、そんな甘い考えで商売をしたら、間違いなくパンツ一枚になるまで損をするだろう。
多くの優れた将軍を置きながらも、使わなかった——それは「使えない」のではなく、「使いたくても使えない」、あるいは「使えば危険」という現実があった。
多くの人は、劉邦の配下にいた将軍たちがみな忠誠心に満ちた腹心であり、決して裏切らないと信じている。だが、そんな甘い考えで商売をしたら、間違いなくパンツ一枚になるまで損をするだろう。
ここで一つの逸話を紹介しよう。漢が建国された後、劉邦は諸将と天下を得た所以(ゆえん)を語り合った際、「なぜ朕は項羽を打ち破れたのか」と問うた。すると将軍たちは、極めて「率直」に答えた。
「陛下は功臣に厚く、爵禄を惜しまぬ。それゆえ我らは命を賭して従うことができた。これこそ陛下が天下を取られた所以なり。」
『史記・高祖本紀』
ところが、その後、劉邦が約束した封賞を遅らせると、将軍たちは劉邦の目の前でさえ、「反乱を起こすべきか」と密かに相談し始めた。この事態に劉邦は大いに恐れ、急いで雍歯(ようし)を先に封じることで人心を落ち着かせたという。
「群臣の謀りごとを聞きし高祖、雍歯を急ぎ封じて、諸将の心を安んじたまう。」
『史記・留侯世家』
このような「忠誠心」を、現代人と比べるのは無意味ではないだろうか?
劉邦は極めて現実的な人物だった。彼は、部下たちが自分に従う理由をよく理解していた。なぜ彼の才能が「天授」と称されるのか?それは、彼が各勢力の利害を巧みに調整しながら、彼らを自らの陣営に引き込む術を心得ていたからである。
後世のある評論家がこう評している。
「天下と利を同じくし、人を用いるに適任を以てす。」
このような人物が、「人心を試す」ような無駄な賭けに出るはずがない。
英布(えいふ)を討つ遠征に出る際、劉邦はすでに老い、病み、傷ついていた。旅の道中で命を落とす可能性を十分に承知していた。そして、もし自分が道中で死ねば、まだ脆弱な漢王朝はたちまち瓦解しかねないと理解していた。それでも彼は出征した。これはまさに「やむを得ぬ賭け」だった。
帰還の際、彼はすでに命の灯が消えかかっていた。だが、なぜ彼は死をこれほどまでに平静に受け入れられたのか?おそらく、彼は自らの成功が「己の無敵さ」によるものではなく、「天命」によるものだと悟っていたからだろう。
「夫れ運命は天に在り、非人力の及ぶ所にあらず。」
『漢書・高帝紀』
天命が自分を成功へと導いたのなら、天命が自分を死へと導くのもまた、当然のことではないか。
現代でも同じである。一般の人はそれほど迷信的ではないが、かえって裕福な実業家ほど、神仏に祈り、風水や運命を信じる傾向がある。
外から見れば、彼らの成功は「才能」の賜物に見える。しかし本人たちはよく知っている——成功を左右したのは、ある一つの決断、些細な出来事、あるいは名もなき一人の存在だったかもしれない、と。
これは果たして「迷信」なのだろうか?むしろ、予測不能で制御不能なこの世界への「畏敬の念」なのではないか。
映画『フラッシュ』(The Flash)でも描かれたように、たとえバットマンがどんなに賢く、どんなに強くても——
「一本のケチャップの置き場が変わっただけで、世界は一変し、バットマンすら別人になってしまう。」
蒯通と曹参:史書に潜む無言の合意
もう一人、注目すべき人物がいる。蒯通(かいつう)だ。かつて韓信に独立を勧めたが聞き入れられず、その後ずっと斉(せい)に潜伏していた。やがて韓信が処刑されると、劉邦は蒯通を斉から呼び寄せ、一通り話をしたのち、そのまま釈放した。
一見、単純な出来事に見えるが、当時、斉の宰相は曹参(そうさん)——漢建国の功臣筆頭にして、後の漢の丞相である。蒯通を中央に送る命令も、斉に下されたものであり、曹参は後に蒯通を自らの賓客として迎え入れている。
果たして、曹参と蒯通の間に何らかの繋がりはなかったのだろうか? 劉邦が蒯通を「犬は主でない者を吠えるものだ(犬各吠非其主)」という一言で許したのは、本当にその弁明だけが理由だったのだろうか?
「臣は狗に過ぎず。狗は必ず其の主を吠ゆ。今、臣が韓信に仕えしは、韓信が臣の主なりき。陛下を吠ゆるは、臣の職分なり。」
『史記・淮陰侯列伝』
劉邦はごく最近、代国の宰相・陳豨(ちんき)を討つために自ら出征したばかりだった。今さら、また曹参が宰相を務める斉を討つなど、体力的にも政治的にも不可能だった。
「朕、すでに力尽きたり。蕭何(しょうか)もまた、余命幾ばくもなし。」
ならば、曹参に丞相の座を与え、その野心を満たしてやるのが最善の策だろう。だが、劉邦が生きている限り、曹参は決して長安(首都)には来ない。だからこそ、劉邦は遺言で後継の丞相人事を呂后に託した。
「蕭何死せば、曹参を以て代えよ。」
『史記・蕭相国世家』
実際、蕭何の死後、曹参は朝廷からの使者を待つことなく、ただちに荷物をまとめ、「丞相となるべく長安へ向かう」と宣言したという。
「参はすでに装束を整え、使者の至るを待たずして長安に赴かんとす。」
『史記・曹相国世家』
史書に記されたこうした一節を、じっくりと読み返してみると——その裏に隠された思惑や、計算された「無為」が、実に興味深い。