韓王信・・英布の反乱はどれほど深刻だった?漢王朝は崩壊寸前だったのか?
世間ではしばしば、劉邦が直面した数度の反乱を軽く見がちである。しかし、その実態は、漢王朝の存亡を左右しかねぬ極めて深刻なものであった。まず漢七年(紀元前200年)、韓王信が反旗を翻す。彼は即座に上党郡へと進軍し、漢の北辺防衛線を直撃した。このとき、もし将軍を派遣して韓王信と匈奴の連合軍と戦わせ、万一敗北すればどうなるか?
世間ではしばしば、劉邦が直面した数度の反乱を軽く見がちである。
しかし、その実態は、漢王朝の存亡を左右しかねぬ極めて深刻なものであった。
韓王信の反乱:匈奴との連携がもたらした大危機
まず漢七年(紀元前200年)、韓王信が反旗を翻す。彼は即座に上党郡へと進軍し、漢の北辺防衛線を直撃した。このとき、もし将軍を派遣して韓王信と匈奴の連合軍と戦わせ、万一敗北すればどうなるか?
河東・上党一帯が失われ、中国は南北朝時代のような分裂状態に陥る可能性すらあったのである。
そのため、韓王信が九月に反乱を起こすと、劉邦は十月にはすでに櫟陽(やくよう)を発ち、銅鞮(どうてい)まで急行し、この「手に負えぬ若者」を自ら討つべく陣頭に立った。
当初、劉邦は連戦連勝を重ね、戦線を句注山(くちゅうさん)以北まで押し上げた。白登(はくとう)の包囲という一時的な窮地を経たものの、大局はすでに掌握されていた。
そこで劉邦は樊噲(はんかい)らを残して雁門・代郡の失地回復を命じている。
『漢書・高帝紀』に曰く:
— 『漢書・高帝紀』
「使樊噲留定代地。」
(樊噲をして代地を定めしむ。)
陳豨の反乱:辺境の「無冠の王」による全面戦争
次に漢十年(紀元前197年)九月、代国の相国・陳豨が反乱を起こす。
「無名の輩」と見られがちだが、実際には趙・代両国の軍事を一手に握る、辺境の実力者であった。彼は漢初最精鋭の辺軍を率い、韓王信および匈奴の冒頓単于(ぼくとつたんう)とも通じていた。
この危機は、韓王信の反乱よりもはるかに深刻だった。陳豨は飛狐陘(ひこけい)を越えて趙国へ侵攻し、郡県の守備兵を「子供を殴るが如く」蹂躙した。
劉邦は兵を整える暇もなく、ただちに邯鄲(かんたん)へ急行したが、その時点で常山郡二十五城のうち二十城がすでに陥落していた。
『漢書・高帝紀』に記す:
— 『漢書・高帝紀』
「趙相周昌奏常山二十五城亡其二十城,請誅守尉。上曰:『守尉反乎?』對曰:『不。』上曰:『是力不足,亡罪。』」
(趙国の丞相・周昌が上奏して、「常山郡二十五城のうち二十城が失われました。守尉を処罰すべきです」と言った。高帝は問うた、「守尉は反逆したのか?」と。周昌は答えた、「いいえ」。高帝曰く、「これは力及ばざるゆえなり。罪なし」。)
太原、上党、邯鄲、河間——戦火は河北全域に及び、戦線は千里にわたった。このとき、劉邦以外にこの危機を収拾できる者はいなかった。彼が自ら出馬せざるを得なかったのは当然である。
劉邦は急遽、趙国の子弟を千戸に任じて人心を安定させ、
同時に間者を用いて陳豨軍将校の内情を探らせ、金銭で味方へ引き入れ、有力将校には懸賞金をかけた。
こうしてわずか二~三か月で、陳豨軍を趙国から駆逐したのである。
その後、再び樊噲と周勃(しゅうぼつ)を雁代地域に派遣し、残務を委ねた。
英布の反乱:病床の皇帝が賭けた最後の出陣
ところが、陳豨の鎮圧が終わらぬうちに、南方の英布(えいふ)が反乱を起こす。
このときの劉邦はすでに病に伏しており、「風前の灯」ともいえる状態だった。
にもかかわらず、彼は再び自ら出征した。なぜか?
それは「容錯の余地」がもはや存在しなかったからである。
多くの人は、項羽が滅びれば天下は安泰と思いがちだが、韓王信、陳豨、英布の三度の反乱のいずれか一つでも失敗していれば、天下の趨勢は一変していた。
前二回は劉邦の体力がまだ持ちこたえていたが、この最後の反乱において、もし太子・劉盈(りゅうえい)を総大将として派遣し、敗北すればどうなるか?
太子が失脚し、皇帝は半ば土中にあり、北では周勃らが陳豨をまだ討ち果たしておらず、その上、軍人たちが英布を支持すれば——漢王朝は即座に崩壊する。
だから劉邦は、自ら「妻子を守るため」に立ち上がった。
病躯を押して矢石に曝されることは、士気の向上に計り知れない効果をもたらした。
大量の刑徒(罪人兵)を率いた劉邦は、英布軍を正面から粉砕し、短期間で反乱を鎮圧したのである。
劉邦が部下を信頼できた真の理由
この三度の反乱において、劉邦は常に最も困難な局面を自ら解決し、後は部下に「仕上げ」を任せている。
周勃や樊噲が韓王信・陳豨の乱でどれほどの軍功を挙げたか?
劉邦は彼らに数十万の兵を預け、長期間外征させた。果たして、彼は本当に恐れなかったのか?
確かに、韓信が「条件を突きつける」など不穏な動きを見せ、陳豨は代地で反乱を起こした。
それでも劉邦は、依然としてこれらの将軍たちに兵権を委ね続けた。
なぜか?
それは、漢軍の将兵が太子・劉盈には従わなくとも、
「天下を鞭で打った赤帝の子(赤帝子)」である劉邦には、絶対の畏敬を抱いていたからである。
もし周勃が反逆したとしても、兵士たちは果たして彼に従っただろうか?
「お前は章邯(しょうかん)や項羽、陳豨、英布よりも強いのか?」と問われたら、どう答えられただろう?
これらの強敵はすべて劉邦の手によって「粉砕」された存在である。
周勃が「自分の方が強い」と証明できるだろうか?
劉邦が最も恐れなかったのは、まさに「将軍の反乱」だった。
なぜなら、誰も彼に勝てないことを、全軍が知っていたからである。
彼が唯一、外征中の将軍を処刑しようとしたのは、
その将軍が「自分の死後、戚夫人(せきふじん)と趙王如意(ようおうじょい)を皆殺しにする」と謀ったと聞いたときだけだった。
『漢書・樊噲伝』に曰く:
— 『漢書・樊噲伝』
「是時高帝病甚,人有悪哙党於呂氏,即上一日宮車晏駕,則哙欲以兵尽誅戚氏、趙王如意之属。高帝大怒,乃使陳平載綘侯代将,而即軍中斬哙。陳平畏呂后,執哙詣長安。至則高帝已崩,呂后釋哙,得復爵邑。」
(このとき高帝は重病であった。ある者が「樊噲は呂氏に与しており、陛下が一日崩御すれば、戚夫人・趙王如意らを兵をもって皆殺しにするつもりだ」と讒言した。高帝は大いに怒り、陳平に命じて綘侯(周勃)を軍に送り、樊噲を軍中で斬らせた。しかし陳平は呂后を恐れ、樊噲を捕らえて長安へ連行した。到着するや否や高帝はすでに崩御しており、呂后は樊噲を釈放し、爵位と封邑を回復させた。)
結語
劉邦の「部下が頼りない」という嘆きは、単なる愚痴ではなく、
国家存亡の瀬戸際で、唯一自らが戦わねばならない「孤独な覚悟」の表れであった。
彼が築いた漢王朝の基盤は、こうした血と汗と病とで、文字通り「自らの手で」守られたものなのである。